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信念なければ見えず #禅の言葉

人によっては、信念ある人(見ある人)と、信念なき人(不見ある人)がいる。ただし、「見あり不見ある」のが重要なのではない。それは、単に「日午灯を点ずるなり」(午<うま>の刻、12時ごろに灯をつけるようなもの)である。逆に、「見なく不見なきも、夜半墨を溌(そそ)ぐなり」(無見識とか、無見識という意識すらないのも夜半に墨を注ぐよう)で話にならない。

見聞は幻翳(げんえい)の如し  見聞きしたものは、ありもしないのにあるように見える幻影(まぼろし)のようなものだ。幻影は、虚空に花があるように見えるという意味の「空花」(くうげ、空華)とも言い、まさに「声色空花の如し」(見聞きしたものは空花のよう)だと言ってもよい。いわば、見たり聞いたりするものは妄想なのだと言うことだ。
多くの人は幻影をよく見る。それは、あたかも曲がりくねった(これを九曲という)玉のような様であると表現できる。その九曲の玉に穴が開いているとき、その穴に糸を通すことは至難の技である。智慧を絞って(一転するような働き=機によって)糸を通すことができるとき、幻影を取り払うことができる。すなわち、悟りの世界に至る。

滄海(そうかい)を瀝乾(れきけん)し、大虚(たいきょ)に充満す  私たちの煩悩妄想は大海のようだ。その海を一滴残らず乾かせば、全てが虚空のようになって一つになる。それが悟りの世界である。ただ、そのような世界は古仏であっても説明することはできない(古仏舌頭短し)。

見あり不見あり(見不見)  「見」とは、見性のこと。そもそも自分という実体などない。全ては「一」だと分かる以前は、不見という事になる。しかし、見不見が問題なのではない。ある人が不見なのだと見えるならば、その人は悟りの境地から見ている(すなわち、本性によって見ている)ことになる。
[注] 見たは過去のこと、未だ見ていないは未来のこと。そのように解釈することも可能。

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