言葉では言い表せないもの
世の中には、「言語によっては表しえない真実が、そのように顕現している」ものがあります。たとえば、「仏とは〜である」と完璧に言い表すことはできませんけれども、仏は色々な形に現れることがあったり、あるいは見えないのだが確かに在るというものだからです。すなわち、ある一つの言い方(「仏とは〜である」)では表現しきれないからです。
そこで、禅宗では仏、仏心などの純粋で清浄なるものを、「恁麼」(いんも)とか「什麼」(なに)、「渠」(かれ)などと呼びます。もともと「恁麼」は、その、この、そんな、こんな、そのように、このように、の意であり、色々な言い方をするから、言語によっては表しえないものとなり、仏、仏心などの代名詞となったのではないでしょうか。
これらのことをまとめるために、日本曹洞宗開祖の道元禅師が恁麼をどのように説明しているかを見てみましょう。
道元は、「恁麼の事実として生きている存在こそ、悟りそのもの」と呼んでいます。「このように現前している存在を悟りと呼ぶ」と言っているのです。要するに、仏として現前している存在、すなわち仏心に気づくことを「悟り」と呼んでいるのです。
そして、道元は『正法眼蔵』「恁麼」巻の中で、「恁麼事を得んと思うは、すべからくこれ恁麼人なるべし。すでにこれ恁麼人なれば、何ぞ恁麼事を愁(うれ)えん」と言います。
悟りを得たければ、すなわち恁麼人(そのような人)になりなさいと言い、さらに実はすでに恁麼人なのだから、悟るとか悟らないとかを愁うことはないのだ、と言っているのです。もっと端的に言うと、もともと私たちは仏なのだから、悟ろうと思う必要はないと言っているのです。私たちは、この上ない無上の悟り(菩提)に直通している(これを[直趣無上菩提]< じきに(むじょうぼだいに)おもむいて >と言う)のです。ただし、私たちは無上の菩提のことをはっきりと認識しているわけではないので、「恁麼」と呼ぼうとも言っています。
実は「恁麼」という言い方は、中国禅の立役者である六祖慧能の時代(7世紀後半)にすでに使われています。
六祖慧能に参じた南嶽懐譲(なんがくえじょう)に対して、「是れ什麼物か恁麼に来る(これなにものかいんもにきたる)」と問うているのです。「何ものがこのように来たのか= このように来たお前とは何ものか」という意味です。言わば、「お前とは、仏(私たちの理解を越えたもの)ではないか」と言っていることに気づかなければなりません。
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