夢物語と覚醒中の話 #禅の言葉
夢物語は架空のことなのだろうか。実際は、何らかの経験や気になっていることが夢に現れると言う。いわば、「夢中を以って実となす」なのだ。逆に、しっかりと目覚めているときの出来事を、夢か幻のように思うこともある。これを、「覚処(かくしょ)を指して虚となす」と言う。
しかし、夢中も覚処も同一人物で起こりうるもの。だから、虚と実が対立するものではなく、別々の二つのものとは言えない。これを、「虚実待を絶する」(または「覚夢(かくむ)元無なる」)と言う。互いに似ているということだ。
[注] 待は<まつ>こと。世の中は相い待ち依り合っている、
すなわち縁起している。だから、「待は縁起なり」である。
このことから、「虚実待を絶する」とは、
相い待つ(相対)という縁起を超えた不二の世界を意味している。
時の人此の一株の花を見ること夢の如くに相似たり 世間の人は一株花を夢でも見ているように見ている。自分の心の中に花が咲いているということに気づいていない。人が見た風景は妄想執念なのに、それを実存と言い、有るとか無いと言う。
もしも分別の無いところ(劫外<こうがい>という)からものごとを見れば、般若の妙智を知ることができるだろう。
禅師が般若の妙智をもって語るときを称して、「虎嘯(うそぶ)けば蕭蕭(しょうしょう)として巌吹(がんすい)作(おこ)り、龍吟(ぎん)ずれば冉冉(ぜんぜん)として洞雲(とううん)昏(くら)し」(虎が口をすぼめて息を吐いて、蕭蕭(さびしい様子)として岩を吹く風をおこす。また竜が鳴いて洞穴から雲を湧きおこす)と言う。修行者は、禅師が語るのを聞いて、自分自身が仏の候補者なのだと気づかなければならないのだ。
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