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珍しくお出かけの話(その2)~故・池波正太郎が愛したカレーを食す~

信州上田市のかつての商店街から伸びる小路にその店はある。
その名は「べんがる」
その昔、上田に逗留した池波正太郎が散歩中にふらりと入って、以後上田を訪う度に必ず一度は行くと言われたカレーレストランである。

カレーレストラン?
そう、ここはいわゆる”手軽な町のカレー屋さん”として始まった店ではない。
そもそも店名からしてあの「銀座デリー」の向こうを張って命名したというから、なかなかに気宇壮大である。

創業は1964年。
初代店主の両澤洋介氏の御家は代々呉服屋を営んでおられたが、御父上は旧満鉄に入れ込んで全財産を投資し、その後の敗戦によってスッテンテンになったというから、まあ戦前の旦那衆らしい気質の方であったようだ。
事業再起にあたって「これからは食の時代だ」とばかりに洋介氏を送り出し、東京の老舗洋食店で修業を積んだ洋介氏を上田に迎えて開いたのがこの店であったという。

当時中華料理屋のラーメン一杯が50円の時代に、一番安いポークカレーを一皿130円で出していたと聞けば、成程お安くない店を目指していたことが解る。

※上サイトに良くまとまっているが、当時大卒公務員初任給が17,100円。高卒公務員初任給が12,400円である。1968年以前は厚生省にサラリーマン初任給の調査がないが、大卒サラリーマン初任給21,200円という民間調べもあるらしい。今のように義務教育以上の価値が安くない時代である。

二代目店主の斎藤繁夫さんという方は、あの初期ガストロフレンチの名店「イル・ド・フランス」におられた方で、ある時東京で意気投合した洋介氏だかその御父上だかが連れてきてこの店を任せるようになったのだそうだ。
洋介氏自身は、上田の中心地よりやや離れた上田原により高級志向の新店を出し、腕を振るうこととなったという。(2012年洋介氏死去に伴い閉店)

2019年に二代目店主の斎藤繁夫氏が倒れて閉店し、そのままこの店はなくなるかと思われた。
この時点で常連さんなどが池波正太郎ゆかりの店でもあるこの店が消えることを惜しみ、出資して外部のシェフを招いて店を継ぐ提案もあったのだが、どうもだいぶゴタゴタしたらしい。
結局、長野市に暖簾分けしていた「プチレストランべんがる」店主の息子さんで洋介氏の親族にあたる藤澤和幸氏が三代目として手を挙げ、閉業期間の後べんがるは再出発したのである。


正直に言ってしまうと、二代目店主の時代に、私は当時遠距離で付き合っていたパートナーに請われてべんがるに連れて行って少々嫌な目にあったことがあって、以来この店から足が遠のいていた。とは言え和幸氏が厨房に立つ今のべんがるとは関係のない話であろうしこの件はあまり語るまい。

ともあれ、機会を得て新しい古きべんがるにお邪魔したわけだった。

食べたのはべんがるカレー。

ちょっと露光がまずくていけないね

noteではお料理系の方をよくチェックしているのだが、その一人ケイチェルおじ様言うところの「お店の黒いカレー」である。

掛けてみても見るからに黒い

お味の方は苦み走ったコクのあるルウに程良いスパイス感がある中辛口で美味。
ただし、今風の味の組み立てではないので所謂”洋食屋のカレー”を古臭くて平凡と切って捨てるような人は評価が厳しくなるかもしれない。値段もまあまあすることであるし。
量的にもサイドメニューを一緒に頼む前提だと感じる。
この日はかつて裏メニュー的に存在していたという鶏レバーのカレー煮込を食べることが出来たのだが、これがまたワイン/ビールの進みそうな素晴らしい味で、是非レギュラーメニューに加えて欲しいと思ったほど。写真撮り忘れてパクパクやってしまったのが悔やまれる。

店最辛のチキンクリーマーカレーにも固定ファンが多く、これ以外頼まない常連客がいる程だと言う。
辛口カレーと言えばチキン、というあり方も、古い洋食文化を知っていると思わずニヤリとしてしまうところだ。

ご馳走様でした!


長野県の地方局がYoutubeに動画を上げていたので貼り付けておく。

それではまた別の記事で…

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