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やることリストをぶっ飛ばす
「やるぞ!」と思うと体にブレーキがかかる。
タスクに対しての回避行動をしてしまう。
勉強するつもりだったのに…
読書するつもりだったのに…
運動するつもりだったのに…
LINEの返信するつもりだったのに…
気づくとTwitterを開いている。
だからきっと「1日に2時間Twitterを開き、最低10ツイートする」とかTwitterを「やるべきこと」にしたら、恐らくTwitterをしなくなるだろうなとは思う。
それなら、それを逆手にとって、敢えて1日2時間のTwitter時間をつくれば、ツイ廃から抜けられるのか?
とか思うけれど、それはなんか違う気がする。
「今日もTwitterをやらなかった。目標の時間、目標のツイート数をこなせなかった」
とか自己嫌悪に陥ると思う。なんて面倒くさい奴。生きてる価値を疑ってしまうね。
「やるべきことをせず時間だけが過ぎて、いつも自己嫌悪に陥る。こんな私はどうしたらいいのか?」
学生の頃、先生に相談したことがある。
「いつも『うまくいってない』わけじゃないよね。それなら大学合格も進級もできなかったはず。どこかで偶然に『うまくいったこと』が絶対にある。ダメな時に反省するのではなく、たまたま上手くいったことを再現する方法を考えなさい」
目から鱗が落ちた。逆転の発想。私はこれからそうやって生きていこうと決めた。
しかし、再現ができなかった。たまたま順調にいっても、「気づいたらそれをしていた」の状態で、何か意識をもって取り組んだりしたことが思い当たらない。無意識に手を伸ばしたら、正しい行動をとっている。逆に「やらねば!」に取り憑かれると、もう全く動けない。
私はいまだに「やるべきこと」をやれないでいる。
目標を立てるところまではできる。短期目標とか目標を細分化することもできている。さらに言えば、目標達成に向けての日々の過ごし方についても考えている。
それでも目標は達成できない。
もう、目標を立てて「明日からやるぞ!」となった翌日には見事にすっ飛んでいる。それどころか、目標立てる前より荒んだダラダラした時間の過ごし方をしてしまう。もはや目標を立てること自体が、自分の成長を妨げている気さえする。目標は自分にとって害悪でしかない。
自分でいうのも何だが、私はコツコツと積み上げていく「努力型」ではなく、短期間でドカっと結果を出していく「天才型」なのではないかと思っている。
大学受験も、本気でやっていたと言えるのは入試本番の1ヶ月前くらい。1月のセンター入試でボコボコにやられて、
「これでは来月の一般入試は受からない。浪人は認めてくれないから、今から本気出さないとマズい。失敗したら死ぬ以外の選択肢がない…」
とようやく火がつき、脇目も振らず勉強し、12月に受けた模試の偏差値から15上の志望校に合格した。もちろん受験勉強自体は高3の夏休み頃からやっていたが、「やっている風」のダラダラ勉強だった。
大学に入っても、社会に出ても、期日ギリギリに慌てて動きだし、しかし、大きな問題にはほとんどならず、及第点を取り続けてきた。
そんな良くない成功体験のせいで「ギリギリに動いてもなんとかなる」という甘えが潜在意識に刷り込まれている。だから私は余裕を持った計画的な努力ができないのかもしれない。
やることリストをぶっ飛ばしながら生きている私。だけど、本当は仲良くなりたい。殴るより抱きしめたい。
どうしたらいいのか。
誰か教えて欲しい。
「だけど、あなたはこの記事を書いているじゃない。これも『ブログ記事を書くぞ!』って思って書いた文章じゃないの?」
と思われるかもしれないが、全く違う。
何故なら、この文章は回避行動で書いているからだ。
今、私の目の前にはテキストとノート、そして筆記具が置かれている。私のすべきことは勉強なのだ。それを無視して、スマホでこの文章を書いている。もう1時間近くはこんな状況。
それも回避行動として長文を書こうと思いついたわけではない。脱ツイ廃をするため、ツイートしたいことをメモアプリに書いていたら、1500字以上の文章ができてしまった。気持ち悪すぎる。
「今日は1500字以上の記事を書くぞ!」と目標を立ててこれを書いていたら、達成できた自分を褒めてあげたい。しかし、今日は勉強する日なのだ。GWも残り少ないのだから、こんな雑文を書いている余裕はない。
どうしたらいいのか。
誰か教えて頂けないでしょうか。
教えて頂けたら「やることリスト」に加えて実践しますので。