傷ついて、苦しんで。せめて、それを成長の種に。
こんばんは。尊田です。
今日の大学入試センター試験は、
(運営上は)大きな混乱はなかった、
と、ニュースで伝えられていました。
もちろん、個人レベルでは、
大きな混乱、小さな混乱、
様々あっただろうと思います。
それでも、やはり、
そういうことがありながら、
そういうことに、驚き、戸惑い、苦しみながらも、あなたの納得のいく自己表現ができるよう、願っています。
そういう話と、
繋がっているのか、どうなのか、
なんといっていいのかわかりませんが、
昨日、1月17日は、
阪神淡路大震災が発生した日付でした。
もちろん、分かってはいました。
マスに限らず
多くのメディアで話題になっていました。
ただ、
気にはなっていたものの、
昨日のnoteで記事にすることはできませんでした。
阪神淡路ではないのですが、
自分も震災を体験しました。
体の傷はとっくに見えなくなり、
新しい住まいにも慣れています。
でも、こういう「節目」のような時に、
ふっと、辛くなる瞬間がきます。
(精神医学でいうところの厳密な)トラウマ、というほどのことではないと思うのですが、やはり、昨日、震災に触れる記事を書くのは、とてもしんどさを感じました。
(もちろん、昨日は昨日で純粋にエールを送りたかった、という方が強い想いです)
でも、触れない、というのも、自分のしんどさを増す気がしているので、無理しない範囲で、ちょっとだけ触れてみます。
なので、ここまで読んで、すでにおつらい方は(きっとたくさんおられると思います)、どうぞページを閉じられてください。
いつか、無理せずに読める日がきっと来ると思いますので。
で、前置きが長くなりましたが、震災についてです(いつの、どこの、と限定はしません)。
被災したときは、
全くの想定外の出来事に、
ただ、ただ、驚き、惑い、翻弄されるだけでした。そもそも、何が起こったのか、よくわかりませんでした。
少しすると、頭では(言葉では)何となく分かったような気がしたのですが、心は全くついていっていませんでした。
そのあとは、ひたすら、目の前のことに精一杯取り組みました。
水を汲みにいく
炊き出しの列に並ぶ
住宅の損壊状態を写真で撮って役所に行く
割れた食器を片付ける
ブルーシートを敷く
職場の片付けをする
それは、新しい住まいが見つかって、
電気、ガス、水道が復旧してからも、
あまり変わりませんでした。
そのときは、もう、今に近い仕事をしておりましたので、不安を抱えるこどもたち、その保護者の方々、その保護者の方々の気持ちを支える方々、そういう方々に対して、お話を聞いたり、お話をしたり、そういうことで、毎日、毎日が飛ぶように過ぎて行きました。
今も、そういうご相談を受けることがあります。
世界各地で大規模災害が起きていますが、発災から何年もたって、その時の恐怖を思い出したり、その時の恐怖を思い出すことによって生活に支障が出ることがある、と報告されています。
実際、「あの子、当時はニコニコしていたのに、何で今頃…」と、とまどう親御さんに会うこともあります。
でも、それが人間としては普通なんだろうなあ、と思うのです。
まさに想定外の、人智を超えた出来事に遭遇した時、その体験は容易に忘れられるものではないでしょう。
自分もそうです。
覚えていることは、それぞれに違うでしょうし、それが、どのタイミングで、どのように現れるかも違うでしょう。
でも、なにかを、どこかで、覚えているのだと思います。そういうように、人間の心はできているのだろうなあ、と今の自分は感じています。
ただ、それは、悪いことでもない気がします。
大きな傷ができました。
それを、なかったんだ、もうないんだ!と強く思い込もうとすれば、おそらく傷は、「あるよ」「みて」と伝えるために、シクシクと痛み出すかもしれません。
だからといって、その傷口を無理やりに開けば、雑菌が入ります。痛いです。炎症を起こします。
だから、傷はある。それはしっている。でも、あんまり触らない。そっと手当てをする。そして、じわっと、傷が塞がっていくまでそっとしておく。
でも、体の傷がそうであるように、ある程度治って、日常生活に支障が出てないな、と思えるくらいになっても、なにかの拍子でぶつけてしまったり、なにかの拍子で水がかかってしまって、イタタタ!ということはありますよね。
でも、それも、体の傷と同じように、そうなったらまた、そっと手当てをすればいいのだと思います。何度も、何度も、ときどき痛い。その都度、癒す。手当てする。
その繰り返しです。
その繰り返しは、でも、無意味で苦痛な作業ではないと思います。
痛み方は、毎回違う。
そこに、自分自身と、
自分自身が「あのこと」を「今」どう捉えているか、の気づきがそこにあります。
違う、ということは、
成長している。
そういうことなのだと
今の自分は捉えています。
確か、お医者さんだったと思うのですが、
災害時などの心のケアを専門にされてる方の講演を聴いた時(ずいぶん前なので、うろ覚えですが^^;)、
『PTSG』という単語(造語?)を使ってお話をされていました。
『PTSD』は耳なじみがあるかもしれませんね。日本語では「心的外傷後ストレス障害」といって、死ぬかもしれない!というほどの出来事に遭遇したあと、様々な精神的な症状が現れて、日常生活に支障をきたす状態です。
『PTSD』の“D”は「障害」を意味するのですが、
その講演で言われていたのは、
“D”ではなくて“G”(=成長)だ、というのです。
恐ろしい体験をして、でも、僕らはそこから学ぶことができる。つらかったし、あれがあってよかったなんて、今でも思えないけど、でも、たしかに、あの後、自分自身も、社会全体も成長した。知っていること、やっていること、予測する力、準備。いろいろなところが成長しているはず。
そんな話だったと思います。
聞いたときは「まあ、そういうものかな?」くらいの感想でした。多分、あたまで、理屈で理解していたのでしょう。
ただ、今、折に触れて、ちょっとずつ痛みをかんじ、それにびっくりしながらも、自分で癒したり、仲間に支えてもらったり、専門家に助けてもらったりしながら、向き合う。痛みが消える。でもまた、ふとした時に痛む。
そういうことをずいぶん繰り返してきて、「ああ、こういうことなのかもしれない」とちょっとは感覚的に分かった気がしています。
ここまで一気に書いてきて、なんとなく、いつもの自分ではない気がしています。でも、こういう側面も、今の自分であることには間違いない。
なので、今日は、このままにしておこうと思います。
傷はある
すごく痛かった。
それを、見ないのでもなく、
無理やり曝け出すわけでもなく、
ときどき、傷んでくれた時に、存在を思い出して、丁寧に接する。
そういうなかで、本当に少しずつだけど、自分の中で、何かが変わっていく。
それは、回復、というのかもしれないけれど、
やはり、戻るイメージよりかは、成長、といったほうが、今はしっくりくる感じです。
これからも、成長していきたいし、
誰かがそれを望むなら、その人のタイミングで、その人の望むやりかたで、寄り添えるようになれると嬉しいなあと思います。
今日も長々と、お付き合いいただきありがとうございました。
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