解呪のことば『もう飲まなくていいんだよ』
僕には、まるで有名な画家の書いた1枚の絵のように、脳裏に焼きついて離れない光景がある。
教室から溢れ出すごちそうさまの声、40余りの机と椅子が一斉に教室の奥へと片付けられ、弾けるように狭いドアから子どもたちが勢いよく出ていく。
しばらく経ち、ふと教室に立ち戻ると女の子がひとり、ぽつんと座っている。40人分の机と椅子がぎゅうぎゅうに女の子を押し込めている。女の子の目の前には1本のビン牛乳。まるでにらめっこをしているかのように、じっと牛乳を見つめていた。
『早く飲んでね。先生も暇じゃないから』
『昼休みに遊ばないなんてバカみたい』
『掃除のジャマなんですけど』
彼女に浴びせられることばは辛辣なものばかり。当時、校庭でみんなと遊んでいる牛乳大好きな僕には、先生やその他大勢の意見が正しかったし、その女の子がどんな気持ちで牛乳を睨んでいたかなんて、考えることもなかった。
この光景は、僕より上の世代では日常として、全国の小中学校で繰り広げられていた。誰しも言われれば思い出すような普遍的なものだろう。今でも、ふれあい給食なんかで小学校に行く機会があると、教室のすみに座っている女の子の姿を思い出す。
これを読んでいる皆さんは、牛乳にどんなイメージをお持ちだろうか。
もし、『背が伸びる』や『骨が強くなる』と考えていて、子どもの発育に欠かせないものだというイメージを持っているなら、先に話した牛乳を睨み付ける女の子のような子どもを増やしてしまうだろう。
現代では、骨づくりに必要なカルシウムを効率よく摂取するためにビタミンDが不可欠と言われている。
ビタミンDは食物から摂ることも出来るが、日光を浴びることによって体内で作ることが出来る。
骨を強く健康に保つには、骨を常に新しくする必要がある。
どういうことか。
体内には『破骨細胞』と呼ばれる細胞があり、古くなった骨を分解していく。そして『骨芽細胞』が体内にあるカルシウムを主に新しい骨を作っていく。個人差はあるが、だいたい5~6年で全ての骨が新しく生まれ変わると言われている。
この『骨を新しく作り変えていく』ことに必要なのは運動だ。
つまり、日光を浴びて運動をする事こそ、骨を強くすることに繋がる。
ここまで読むと、『運動は成長に不可欠』という当然のことを書いているようにしか思えないかもしれない。
では、昼休みまるまる潰して牛乳を飲ませることの意味はなんだ?
日光を浴びて、外で友達と遊ぶ機会を奪っておいて、カルシウムだけ無理矢理摂らせても、骨の材料にならないまま体外に排出されてしまう。子どもにとって貴重な昼休みの時間は、無知な大人によって毎日奪い取られ、
小学校1年生~中学校3年生まで続けると、およそ54,000分(900時間)にも及ぶ。
ひと昔前と違い、牛乳を飲む目的が変わってきている。骨を強くするという身体的なものでなく、ストレス軽減や睡眠の質を向上させるなどの精神的な効果へ目が向けられ始めた。デザートやお酒のアテなど、形を変えて家庭の食卓に上ることも多くなった。
ではなぜ、学校給食では今も変わらず半強制的に牛乳が飲まされているのか。
牛乳は成長に欠かせないという思い込みが先行し、物事をしっかり論議しない大人たちのせいだ。国の補助金目当てや煩雑な手続きを嫌う行政の問題だ。
学校給食の補助金をもらうには、提供される牛乳を国が定めた牛乳の規格に合ったものにしなければならない。
実は昭和27年に制定されて以来、牛乳自体の規格は変えられた様子がない。
所詮は素人レベルの調査だが、少なくとも平成になってから、牛乳の成分に対して目立った国の改定はない。
国の規格が変えられていないことが問題ではない。
国の規格をそのまま学校給食会が採用していることが問題だと思う。
この栄養過多の時代に、脂肪やタンパク質はそんなに必要なのか。明らかに戦後の考えを引きずったまま、令和まできてしまっている。
今や家庭で栄養不足に陥る子どもは少ない。思想や体質により、牛乳を飲ませたくない親も居るだろう。ならば牛乳は選択制にすべきだ。少ないといっても貧困にあえぐ子どももいることを考えると出さないより、選択制の方が適している。
教室でひとり牛乳を睨みつけていた女の子にあの時どんな気持ちだったかを聞く機会は、もう訪れないだろう。
でももし、僕がタイムスリップして、あの時の小学生の僕に会うことがあるなら、そっと耳打ちして背中を押してあげようと思う。
小学生の僕は牛乳を睨みつけている女の子に声をかける。
『その牛乳、もう飲まなくていいんだよ』
パッと表情が明るくなる女の子の手を取って、陽の当たる校庭へ出ていく。
そんな一幕で、どれだけの子どもの心が救われるだろう。
牛乳を子どもに飲ませなければならないという、前時代の考えとの厳しい戦いが、大人の僕に待っている。
学校給食にかけられた呪いを解くたったひとつのことばを、たくさんの大人が子どもにかけられる世界が訪れることを、願ってやまない。