エッセイを毎日書いていて気づいたこと
「あぁそっか。そうなんだ。」
時計は23:30。今日もまだパソコンの前に向かっている。やらなきゃいけないことがあるからだ。
だったらこんなエッセイを書いていないで、さっさとやれよと言われそう。
だけどなんとなく、気づいた今だからこそ、平静ではない今だからこそ、書けることかもしれないと思ってエッセイを書いている。
対したことじゃないけど、エッセイの雰囲気で自分の気持ちが「陽」なのか「陰」なのかがわかるなということに気づいた。
えっ。そんだけ?と思われそうだが、これって毎日書く上ではとっても大事なことだと思っていて。良いか悪いかはさておき、気持ちの浮き沈みがあればあるほど、色んなエッセイが書けると気がする。
先日はこんなエッセイを書いた。気持ちが「陰」の時はそれっぽい持論を語りたがる。
オンラインコミュニケーションの中で、Webメディアで発信する腕を磨きたいと書いた。ここで磨くのは記事の質にこだわった発信のこと。5年~10年と廃れないWebの読み物になるぐらいのものを作ってみたいという気持ちでいる。
対して、エッセイは直感的な発信。これは読み物の質というのよりもどれだけ人間っぽさ「体温」が表現できるか。
エッセイを読み返せば、日記で言葉を綴るよりも自分の感情がどう動いたのかを振り返れる。
その時の自分を写真に収めるようなイメージ。
ただし画像ではなくて文字で切り取る。
反射的な発信をするから、反射的な発信の良いところと悪いところがわかる。今後、こだわった記事を作れば、そこにはまた今まで見たことの無い世界が見えるかもしれない。
未来のぼくはちゃんと、何年も廃れないWeb上の読み物をつくっているだろうか。