モンターニュの折々の言葉 377「明日の日本を考える」 [令和5年4月26日]

「幕末や戦国という、いわ乱世に関心をもつのは、たとえば文化・文政期のような秩序の安定期というのは広い意味の風俗に人間が埋没していて、私の目などでは人間の課題がよく見えないためでもあります。その点、秩序という、社会の人工扶育装置がはずれてしまった乱世では人間がいたたまれずに赤裸々にとびだしてくる感じで、そのなまの課題をさまざまな面から見ることが容易です。 一つの秩序がほろびようとしつつも、あたらしい秩序がまだあらわれようとしてあらわれないという時期に、私はどうも飽くことのない関心があるようで、それらの人間群をみていますと、ときに目の奥が痛いほどのまぶしさを感じてしまいます。まばゆいといえば、人間の社会的生存者としての潜在心理というのは秩序を好んでいるのか、それよりもむしろあたらしい秩序ができるかしれないという乱世こそ太陽を感じているのか、よくわからないところがあります。」

司馬遼太郎「自己を縮小して物を見る」

 今日は、朝から雨で、こういう雨を恵みの雨と言うのかわかりませんが、7月の金沢ので講演会の話しが日程等、多少煮詰まって来て、講演の所謂下絵、草案(フランス語では、これをesquisse、 ebaucheと言いますが)を考える時間にちょうどいいかなあと。たまたま、セネガル以来の友人が大学生となって思想史を学んでいるのですが、今どきの大学の授業風景もイメージできましたので、そんなことも交えて。

 他人に何かを話す場合、共通の話題を入れないと、聴衆者は寝てしまいます。共通の話題といっても、濃淡があって、どこの辺の話にするかを思案する訳です。あまりにオタク的では、ついてきません。目を覚まさせたまま、話者である私に目を引きつけるようにしないといけませんが、これはなかなか難しい。昨今はAI流行りですから、知識としての情報なら、スマホでそこそこ間に合う。

 話題にはユニークさがないといけません。つまり、聞いて得したものがないといけない。聞いて得したことというのは、これもまた個人差があって、結局、聞く人をある程度、一般化というか、平均化して話さないといけないのですが、これも難しい。なぜなら、私が行うであろう平均化というのも、私の知っている世界の人を平均化するだけですから、限界はあります。

 まあ、それはそれとして、外務省で働いた人間ですから、というか、関心のあることは、個人としての生き方ということにありますので、個人を幸せにする社会、国家はどんなことをすべきであるかということが常にあるのです。孔子の言葉にあるように、国家がすべきことは、色々な意味を込めて、国の、国民の安全を保つことでしょう。安全保障というのは、概ね、武力による安全保障、食料やエネルギーによる安全保障、そして、もう一つが教育による安全保障ですね。この安全保障の力、安全保障力というのは、ジオポリティカル地政学な側面も加味して言えば、他国との相対的な比較の力で、比較優位にある力ということ。その力は、今流行の言葉?で言えば、ハードパワーとソフトパワー。

 ところで、バルザックは人間の本性は衣食住にあると言いましたが、人の場合は、そうでしょうが、社会とか国家になると、本質的なものがなにであるかを知る上では、国民がどんな衣食住に依っているかはそれなりに役立つますが、国家がどういう意識で国家運営をしているかという点では、孔子が言う、安全保障、話の流れからすれば、ハードパワーとソフトパワーを考察しないといけないでしょう。

 さて、講演では、聴衆者が教育に携わる専門の人々であることを考えると、日本の安全保障の中の最大の要であろう、教育の安全保障を、軸とした話しになるのかなあと。もっとも、私は教育者ではありません。ただの年金生活者。バイトで小中学生に、勉強を教えてはいるものの、教育学を専門に学んだこともなく、まして、正規の先生としての実務経験はない。教えた経験は全てアルバイト。講演者として高校生や大学生に話をした経験はそこそこ豊富ですが、無報酬で行ったのが高校生講座や外交講座。依頼されて行ったものは、報酬を思いの外沢山もらいましたが、どっちも同様に難しい。ただ、報酬をもらってやった方が、圧倒的にプレッシャーはあったかなと。

 報酬をもらって話す時は、プロとして話すことを意識させられます。プロはその道の専門家で、アマチュアが持っていないものを提供しないといけない。ですから、私のプロとしての聴衆者との関係において、比較優位のあるものは何かを思考する時間がとても大事な訳です。結論的には、そんなものはほとんどないのですが、不要不急のことばかりをしてきたお陰で、たとえば、読書で得た知識は、平均的な日本人よりは多分多い。

 私の悩みの種の一つは、日本という国は、教育をどのように考えているのか、教育のモデルがあるのかがわからないこと。寺子屋は庶民のための学習の場でしたが、所謂エリート的な武士階級は藩校で学んだ。明治になって、誰でも公的教育機関で学ぶことができ、他方で、私学もそれなりに国家建設、繁栄に尽くして来たわけです。しかしながら、旧態依然としてというか、日本の小学校と中学校の義務教育から、義務教育ではない高等学校、大学での教育のあり方というのは、バートランド・ラッセルが指摘しているように、日本の産業構造を効率的に、現状維持するための、保守的教育。

 都立の高校というのは、その典型的なもののようで、教育委員会で都立の入試の共通試験問題作成に携わった人が言うように、試験は7割前後の点数を取れる層の拡大にあって、要領の良い生徒を選別するのが試験とか。そうなんですよね、日本の教育というのは。適度に要領のいい子を大量制作するシステム。諸外国の教育事情は知りませんが、一人あたりのGDPが高い国は、ルクセンブルク、アイルランド、スイス、ノルウエー、シンガポール、アイスランド、の順ですが、人口が比較的少ない国が上位を占めている。先進国の教育比較はOECDなどでよくなされているので、ODCEの資料を見れば、先進国で、教育が成功している国の特徴も出てくるでしょうが、どうも、教育効果は人口があまり大きくない共同体の方が上手くいく気がする。

 日本の戦後の教育モデルは確かアメリカ。明治期には、ドイツやフランス、あるいは英国がそのモデルとしてあったのでしょうが、エリート育成の教育は日本では馴染まなかった、米国式の教育が実情にあっていたということなんでしょうが、日本の歴史がそうであるように、日本という国は、日本人は、どうもモデルがなくなると駄目になるような傾向があります。

 本当であれば、世界の№2の経済大国になった段階で、自ら率先して、成功のためのモデルを打ち出してもおかしくなかったけれども、そういうことは無かった。経済大国になったことの背景に、優れた教育システムがあったという、言わば科学的分析はなかったということなのか。それとも、その教育システムは米国の借り物であって、模倣であったから、大きなことは言えなかったのかはわかりませんが。

 講演では、私が思う日本の教育のモデルを紹介することもできませんが、確かなことは、未来の日本の容貌、フィジオノミーphysionomieを占うのは、教育のあり方次第であって、学ばないといけないことには、当然ながら、定量化が基本である科学的思考や、定量化ができない思想的なこと、宗教も含めて倫理道徳的なこと、そして、こころにも関わる文学や言語についての学びも含む訳で、AIには今の所できないであろう、想像力の増強による創造力の増強が不可欠であるという話になるのでしょう。

 今日のまとめです。「坂本龍馬は明治維新史の奇跡的存在である」と言われる坂本龍馬ですが、彼のことは、役所時代に行った、高校生講座の講演で、彼は、刀はあくまでも護身用に差してはいたけれども、ピストルを隠し持ち、そして、そのピストルよりも大事だと思っていたのが、「日英辞書」であったと、高校生に話していたことがあります。

 彼が望んだ日本は、官軍も賊軍もなく、また、藩という縛りもない、江戸時代の封建的で差別的なクローズドな社会とは違う、外に開かれたオープンな社会、個人が基本の、柵のない自由に活躍できるような社会(特に経済活動の自由さを謳歌できる社会)。いわば、ボーダレスの、グローバライゼーション社会の先駆け存在。しかし、生まれたのがちょっと早すぎた人間で、それ故に、暗殺されたとも考えられます。

 彼が明治維新まで生きのびていたら、日本のその後の近代化が変わったかどうかはわかりませんが、日本の歴史で、古い秩序から新しい秩序に移行する間の端境期、あるいは過渡期という時期がどのような時期であったかのか、なかなか明確に挙げることができません。秩序の変更、それを革命と言えるかは別にして、近代以降で、日本の秩序が変わったのは、何時であるのか。

 日本の秩序の変化というのは、国家の権力構造の変化ということになると思いますが、意外とこれはややこしい。というのも、日本という国は、権力がどこにあるのかがいまひとつ曖昧。権力と同様に、権威もそうです。江戸時代以降の社会的な流れ、あるいは、日本の象徴的な出来事などを挙げると、士農工商制度、明治維新での身分制度の廃止、天皇制の強化、議会制民主主義制度の導入、富国強兵政策(特に軍事力の増強)の実施、帝国主義的侵略、第二次世界大戦での敗戦、米国による占領(国家主権の喪失)、新憲法制定、主権在民、象徴的天皇制、米国依存の安全保障、経済大国、保守政権の長期化、バブル崩壊、自然災害の多発化、インバウンド頼りの経済、コロナ禍、オンライン・テレワークの導入、少子高齢化に拍車、人口減、犯罪の多様化、AIの暗躍、不動産価格・物価上昇、賃金据え置き、財政赤字の膨張、、、。

 世の中がおかしくなる最大の原因が何かはわかりませんが、人の飽きっぽさもその一つでないかと。制度というのは時間とともに疲弊しますし、人はその制度に飽きます。日本が再生できるかどうかはわかりませんが、飽きが来る人間を飽きが来ないようにする、飽きの来ないものを作ることを教える教育もあってはいいのではないかと。失礼しました。


いいなと思ったら応援しよう!