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900円(+税)が”かえる”世界

趣味、建築(7)

 今回は最近おきた出会いから、その影響について。書こうと思ったきっかけはまさに私のパラダイムがシフトしたためである。

 時期的に建築学科の友人たちは就活やインターンの話で盛り上がる。「私はこの事務所行く」「インターンでポートフォリオ提出した?」もう胸がいっぱいだ。飲み会では就活の話が息を詰まらせるとされるようだが、院試やその他の類ももっぱら同種である。

 私は構造主義と「存在と時間」、これらを学んでからパラダイムという言葉を思考する際に用いるようになった。


構造主義との出会い

 構造主義、この言葉、字面からでは分かりづらい。しかし、今では<構造>は社会の様々なスケール、認識的な次元を網羅するシステムの網の目それ自体であると理解している。したがって、我々はこの<構造>によって生活している。そしてこの事実が、この概念を厄介なものたらしめる原因となっているようだ。
 理解しがたい厄介さもさることながら、この<構造>から抜け出すことも甚だ難しい。なぜならこの<構造>は社会システムとして物理的な側面から我々を支える「構造」だからでる。重力下で建物を考えることと同じように、逃れられない前提にほかならないのである。


「存在と時間」との出会い

 哲学者ハイデガーが著した「存在と時間」。彼はこの本の中で、存在とは何かという問いに向き合った。
 その結果、まず人間とはどんな生き物か、その上で、”人間が考える存在”を考える必要があるとした。人間の存在は時間を媒介に考えるべきとし、それまで主流であった「存在するとは、いま目の前にある実在」という従来的な考え方を根本的に問い直した。


出会いと出会いの出会い

 構造主義は、社会のシステムを表出させたように方法論に位置づけられる。しかし、そのラディカルに世界を追求する思想は哲学史に包含され、ポスト構造主義と言われのちの思想運動の根幹を作った。
 私は仕向けられたように哲学に、またこれもモヤモヤしたような概念に出会うことになる。これがなす体系を見れば正真正銘の学問であると思うのだが、哲学が扱う範囲ゆえ、学問と呼ぶことをためらう人々も歴史的にいるようだ。
 そして私は、この<構造>を疑うために哲学的思考をするべきという結論に至る。


俯瞰する構造

 哲学的に思考するとはつまり、前提を疑い続け本質を浮き彫りし、最終的には答えのない問いと対峙して、ああじゃないかこうじゃないかと頭をひねることだと思う。建築は最終的に人間とは何か、何をよしとするのか、どのように世界を読み取るのか、つまり哲学の主題である存在論・認識論・価値論にたどり着く。これらには答えがない。
 建築は形を用いて議論し、一つの解答を作ることに命を懸けるということだろう。

 <構造>という概念はさきほども言ったように、ゆれる川面に手をつけ、その感触を確かめようとしたとき既に全身はその流れの中にいる状態を示すのである。哲学的な思考とは、前提つまり<構造>を見つけ、疑い、最終的によりより大きな主題となる、自分自身への問いかけの入口なのである。ひいては自身の置かれている状態を概観し、一歩離れた視点を獲得するプロセスと言えるだろう。 
 やがて自己への問いかけは万物に共通する何か、つまり根源的な何かの影を捉える。自由な思考とはまさにこの拘束条件を疑っているときであり、<構造>から脱出することができる。


学問の喜び:自由な思考
 
哲学はとりとめのない概念である。一方哲学をするという営みはだれもがすることのできる、自分自身と向き合う一つの手段ともいえるのだ。これは簡単なことではないが、ここで得た「思考の肺活量」こそが最も固有で、個人が個人であるための基礎動力に他ならないだろう。


参考
 橋爪大三郎「はじめての構造主義」講談社現代新書(1988) 
 900円(+税)


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