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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業

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●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれますが、そのためには人生行路の細部の諸事…
中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいた…
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#平塚

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (128)平塚時代のはじま…

 房州岩井行を終えて東京にもどった中先生は赤坂表町の中家に滞在しましたが、ときおり神奈川…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (129) 中島まんさん

 中先生が平塚に家を建てる作業に具体的に着手したのは大正13年の6月ころからですが、計画そ…

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平塚時代:房州岩井から平塚へ

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (130) 中島まんさんの話…

 中先生の兄と末子さんは大正11年の夏、野尻湖畔に向い、池田萬作さんのお宅に滞在しましたが…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (131) 中島さんの話(二…

 中島さんの語る平塚の中先生の話を続けます。中先生は雨が降らなければ必ず朝の散歩に出まし…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (138) 兄を迎える

『しづかな流』の昭和4年7月15日の記事には兄の消息が詳しく語られています。7月21日か22日こ…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (142) 山田さんを思う

『しづかな流』は499頁に及ぶ著作ですが、全体を通じて一箇所だけ山田さんが回想される場面があります。それは昭和6年10月6日の記事で、 《□□を失つたことは私にとつてまことに償ひがたい損失であつた。彼は私のよい教師になるために生れてきたやうな人間であつた。》 と記されています。ここに□□とあるのが山田さんです。とても短い言葉で、しかも名前が隠されていますが、中島さんの手紙を見ると、中先生のこころには『しづかな流』の時代にも絶えず山田さんが生き続けていた様子が伝わってきます