『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (128)平塚時代のはじまり
房州岩井行を終えて東京にもどった中先生は赤坂表町の中家に滞在しましたが、ときおり神奈川県平塚に出かけるようになりました。大正13年5月26日付の和辻さん宛ての手紙(葉書)に、「これからまた平塚へ行きます」と書かれているところから推すと、平塚行が始まったのはこの年の5月ころからのように思われます。5月29日付の志賀直哉宛の手紙(葉書)にも「一両日中に平塚に旅行します」とあります。このときの平塚行は実現したと思われますが、いったん東京にもどり、それからまた平塚に向った模様です。実際、6月19日付で和辻さんに宛てた手紙(葉書)には、中先生の所在地が「神奈川県平塚町西海岸 永井専太郎様方気付ヶ」と記入されています。中先生は平塚への転居を考えていたのでした。
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中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。
●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…
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