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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業

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●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれますが、そのためには人生行路の細部の諸事…
中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいた…
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#中末子さん

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (129) 中島まんさん

 中先生が平塚に家を建てる作業に具体的に着手したのは大正13年の6月ころからですが、計画そ…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (130) 中島まんさんの話…

 中先生の兄と末子さんは大正11年の夏、野尻湖畔に向い、池田萬作さんのお宅に滞在しましたが…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (133) 望岳荘にて

 望岳荘に到着したころはもう夕暮れ時で、ちょうど夕食のお膳が運ばれてきたところでした。そ…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (140)うつせ貝

『しづかな流』は日記の形のエッセイ集ですが、日々の記録と随想に混じって歌と詩が随所に散り…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (143) 平塚から東京へ

『しづかな流』の時代は昭和7年までで終りました。岩波書店の雑誌『思想』に「しづかな流」と…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (146)相鴨口授

 昭和12年5月10日付の小宮さん宛の手紙で、中先生は文化というものに言及し、「文化とかなん…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (147)氷を割る

 中先生のエッセイに「氷を割る」という看病日誌があり、昭和15年5月31日から7月1日まで、末子さんの病気の様子が克明に描かれています。次に引く詩篇はそこからとりました。末子さんに寄せる中先生の心情がにじんでいます。  宿命か  げに宿命か  三十年の月日を  半痴半狂の人のみとりに  身心ともに病み疲れて  朽木(くちき)のごとく倒れし人  その比(たぐ)いなき善良さを思ひ  いいようもなき不幸の一生を思ひ  わが更生の恩をおもひ  家運挽回の恩をおもひ  ながしにぽとぽ

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (148) 昭和17年4月3日(…

 末子さんの没後、中先生は『蜜蜂』という末子さんを追悼する著作を出しました。この著作に書…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (150)詩篇より

次に引く詩は『蜜蜂』の4月19日付の記事の冒頭に書かれています。  雨も悲し  風も悲し  …

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (151) 匂い菫の押し花に…

 7月24日、中先生は「けふは「たうとうこれを書くことになつた」と書き起こし、36年前の明治3…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (152) 匂い菫の押し花に…

 中先生と末子さんの花壇作りにまもなく山田さんが仲間入りしました。それが縁になって、一高…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (153) 匂い菫の押し花に…

「余生」からの引用を続けます。末子さんもまた山田さんと同じく誠実善良な人で、それゆえにた…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (154) 中家の建て直しを…

 末子さんが亡くなってから中家には中先生と兄の二人だけが残されました。明治4年6月4日の生…

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (158)釣り日記

『蜜蜂』は昭和17年10月27日の記事で終っています。この日、中先生は「兄さんは今月の十二日になくなりました」と書きました。「私は泣きました」とも言い添えられていますが、亡くなったおりの事情は何も書かれていません。その日は結婚式だったことにも触れられていませんし、結婚にいたるまでのあれこれのことも何も記されていません。中島さんは7月11日の記事に登場するのが最後です。この日は末子さんの百ヶ日でした。中先生は外出して帰り、汗になった衣類の洗濯をしました。女中さんの手もいくらか省