映画『福田村事件』を観て。 ※注: ネタバレあり。
こちらの映画を観て約一ヶ月。
実際に100年前、起こったとされている事件を元に映画化されたものだそうだ。
地元の小さな映画館へ行ってきた。
新作に限らず、大昔の名作映画なども上演されている所だ。
見出し画像がその入口だが、いつもは閑散としているらしい。
しかし、中に入ってみると、こちらの映画は行列ができるほど多くの人で賑わっていた。
いつか感想を書こうと思いながらも、下手なことは書きたくない。
でも違う。
書くのが怖かっただけだ。
拙い文章でも、書くことに意味があると思う。
歴史などには全く詳しくないが、そんな自分でも思ったことを率直に書いてみようと思う。
観終わって、まず一番に思い浮かんだ言葉。
「誰でも良かった。」
…こちらは、映画の中に出てくる言葉ではない。
昨今でも、よく耳にする言葉ではないだろうか。
無差別に人を傷付けるような人たちが、口を揃えて言うようなことだ。
もう少し詳しく書くと、
「自分よりも下の立場であれば、誰でも良かった。」
…という意味になるのではないかと思う。
映画で描かれているのは、あくまで、関東大震災の後、多くの外国籍の人(特に朝鮮の人)が虐殺されたという事実。
そして、映画の中心となる殺された人々は、日本人ではあったが、その中でも立場が下だとされていた人たち。
朝鮮の人だという疑いが濃厚になったところで突然、朝鮮の人に個人的な(ただし流言飛語におどらされた)恨みを持っていた女性が無表情で手を下した。
そのことが発端となり、それまでは、ただ騒いでいただけの人たちも急に我を忘れたように虐殺へと向かっていく…。
小さな子どもを抱えた妊婦さんが、川の中へ入ってまで追い詰められていくシーンなどは、あまりに残酷すぎて見ていられなかった。
ここでは、追い詰めていた数人の村人たちにも迷いがあったように思う。
それでも、そこまで追い詰めておいて何もなかったように引き返すことなどできなかったのだろう。
言い方を変えれば、誰も先陣を切ることができないような状態だったのだと思う。
引くことはもちろん、傷付けることにも、ある意味勇気が必要だったのだろう。
あの、ためらっていた少しの間、一体何を考えていたのだろうか…
もしかしたら、身近な家族… 自分の母親や奥さん、子供のことなどを思っていたのかもしれない。
映画を観る数日前、たまたま親戚に、下の画像のイベントに連れて行ってもらっていた。
赤ペンで囲んでいる部分は、正に、福田村事件と同じ関東大震災の後の朝鮮人虐殺についての歴史についての講演会だった。
それまではうっすらと聞いたことがある程度だったが、あまりの日本人の残酷さと、人間の持つ恐ろしい一面に、一気に引き込まれた。
元々、最近の、日本を賛美しすぎるような風潮に疑問を持ってはいたのだ。
もちろん全てが悪いとは思わない。
それでも、国ではなくもっと小さい組織や個人に当てはめてみたらどうであろうか…。
どんな組織にも個人にも、良いところもあれば、とても受け入れ難いところもある。
それは、国であっても同じことだと思う。
そして、それを包み隠さずに、あるがまま受け入れることが、自分には最も大切なことではないかと思う。
過去に起こった事実は変えられない。
もし個人間での話ならば、一生傷が癒えない人も居れば、一生罪を背負って生き続けなければならない人も居るはず。
どんなに謝罪されたとしても、どんなに適切に法律で裁かれたとしても事実は変わらないし、人の心も変えられない。
それは、何かしらの事件や事故の被害者、加害者でなくとも、理解しやすいことではないかと思う。
それでも、それを国や組織に置き換えても同じことではないだろうか…
それを今、次々と無かったことにされていっているらしい。
どういうことかと言うと、過去に起こった事件そのものを無かったことにしようとする動きがあるそうだ。
講演会で話されていたことはそういうことだ。
福田村事件は、長い間、歴史の中に埋もれてしまっていたものを、原作本の著者の方が必死に掘り起こしてくださったこと。
もしかしたら、同じように他にも埋もれてしまったままの事件など、まだまだたくさんあるのかもしれない。
ただ、いくつもの記録が残っているにも関わらず、少しずつ消されていっている事件も多々あるようだ。
もし、何かしら慰霊碑などが残っていれば、その地域の自治体に苦情がくるらしい。
そして、何故か自治体はその言いなりになって、その慰霊碑などを撤去してしまうのだとか…
そして、そもそもの "虐殺事件自体が無かったという主張" もあるらしいことが何より恐ろしい。
100年前の事件とはいえ、多くの人々がそれらの事件を、苦しみに耐えながらも後世に伝えようと残して下さっていたのだ。
もちろん二度と同じようなことを繰り返さないためにだろう。
100年前と現在… 一体どう違うというのだろうか。
最近のニュースなどを見ていてもよく思う。
これからも同じようなことを続けていくつもりなのだろうか…
「100年も経てば皆、灰になる。」
…こちらは、全く関係のないところからの言葉だが、生きてる人間は入れ替わっても、人間の本質はきっと変わらない。
そして人間には心がある。
他の動物よりも発達した脳がある。
当事者が皆いなくなったとしても、どこかで歪みが残ってしまうのは当然のことだろう。
無かったことになど決してできない。
そんなやり方が許されて良いとは思えない。
話を映画に戻すが、日本人の薬売りたちが朝鮮の人ではないかと疑いをかけられている間、薬売りの長は黙って様子を見るように座っていた。
決して自分からは否定しなかった。
ちょうど、"日本人の薬売りである証明書" を本物かどうか確かめに行っているのを待っている間だ。
余裕… ともとれるが、自分には退屈しているようにも思えた。
そこで、薬売りの道中、朝鮮飴を売っていた女の子からもらった扇を出して仰いだため、より、疑いが濃厚になるのだが…
こちらも、自分にはわざとではないかと思えてしまった。
村人が、「やっぱり朝鮮人だ。殺せ!」と叫んだ後、ゆっくりしているように見えた薬売りの長が急に立ち上がって言い返す。
「朝鮮人だったら殺してもいいのか!?」と。
凄い迫力で誰も言い返せない。
誰も「良い」とは言えない。
ただ、突然その声は途切れる。
まるで、「そりゃそうよ…」とでもいう女性の声が聞こえたかのようだった。
薬売りの長は、危険な状態ではあっても、まさか人を殺せるほどの勇気… と言っていいものか、覚悟のある村人が居たことは想定外だったのかもしれない。
また話を講演会に戻すが、こちらで初めて、下の写真のアメリカ人女性を知った。
ローザ・パークスさん。
講演会のスライドは、裁判での様子だ。
彼女は、仕事帰りのバスの中、"白人専用の席" に座られたらしい。
そこで注意されても席を立たなかったため、捕まり、裁判で上の写真のように答えたらしい。
最後に書かれている、
「屈伏することに疲れていた。」
先ほど書いた、福田村事件の薬売りの長たちと、どこか似ているような気がした。
彼らも、日本人ではあっても、生まれたときから、いわゆる "穢多(えた)" として差別されてきたのだ。
朝鮮の人と疑いをかけられてもすぐに否定しなかったり、日本人と朝鮮の人を見分けるための言葉を言わされようとしても反抗的な態度をとったりなど…
すぐに証明できるにも関わらず、そうしなかったのは、単に「疲れていた」のではないだろうか。
そうやって虐げられ続けてきたことに対して…
薬売りたちの中にも、朝鮮の人を見下したがっているような人も居たが、同じ日本人からも見下し、虐げられてきた薬売りたち。
こちらの映画は、外国籍の人たちに対してだけではなく、同じ民族間同士での差別や偏見についても問いかけてくる。
講演会では、福田村事件についても触れられた。
あまりに多くの場所で事件が起きた記録がありすぎて、ほんの少しではあったけれども。
ここで初めて映画のことを知った。
上の2枚の画像は、連続して撮っていたため、どちらも福田村事件に関する資料であったと思う。
実は、講演会で聴いた話と映画では、大事な場面が違うように描かれていた。
映画では、"日本人の薬売りである証拠" を本物かどうか調べている間に、その結果を待たずして虐殺が始まっていた。
しかし講演会で聴いた話では、一度は日本人だと証明されたのだそうだ。
ただ、上の写真の渡し船の船賃のことで船頭さんらと揉め、それを見た誰かが半鐘を鳴らしたとのこと。
その後の詳しいことは分からない。
半鐘を聞いて、たくさんの村人が押し寄せてきたのかもしれない。
もう引くに引けない状況だったのかもしれない。
分かっているのは、"亡くなった人たちの中には子供や妊婦さんらもいた" 、"遺体は川に流された" などの結果。
つまり、日本人だと完全に分かっていながらも虐殺が行われた可能性もあるということだと思う。
だからこそ、最初に書いた通り、「(下の人間なら)誰でも良かった。」のではないかと自分は思ってしまった。
関東大震災が起きた直後の混乱の中、朝鮮の人に対して疑心暗鬼に陥った国民、村人たち…
とても正常な判断などできなかったのではないかとも思えてしまう。
実際に政府が、"朝鮮の人が暴動を起こしている" などというデマを流していたというのだから…
下の画像が、講演会でのその証拠とも言える写真だ。
上のような電報や新聞を読んで、一体誰が恐れずにいられたというのだろうか…
日本人はもちろん、外国籍の方々の恐怖は計り知れない。
本当は、福田村事件を観た後に読んだ、下のたくさんの記事について、一つ一つ感想を書いていくつもりだった。
ただ、もう十分な気がしてきた。
今の自分にとても書ける気はしない。
"十分" とは、決して "完全だ" という意味ではない。
もし気になる方は、映画を観たり、他の方の詳しい記事などを読んで考えて頂きたい。
自分では力不足だ。
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気になる方は、記事のタイトルなどで検索されてくださいませ。
「人間はそうそう変わらない。変われない。」
自分一人だけでも大変なのに、そこに他の人たち… つまり "集団" が絡んでくると身動きができなくなる。
それも、人間に心があるからこそ。
それでも、心があるからこそ生きていけることもある。
何が最善の策なのかなど分からない。
本当に、色んな本面から、人間について考えさせられる映画だった。
観ることができて良かったし、クラウドファンディングでこんなに素晴らしい映画が出来上がったことにも驚きだ。
スタッフさんや役者さんはもちろん、たくさんの支援をして下さった方々にも感謝したい。
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