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小説「今夜も悪魔が殺してくれない」

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私が自殺を決意したのは、死にたい夜を数えて百回目を迎えた夏のおわりのことだった。

夏はいつも死の匂いがするし、それを超えて冬になると無の匂いがする。生き物はみな、秋のうちに死んだらしい。


僅かに残していた理性を振り切って、インターネットの検索欄に『じさつ 方法』と打ち込んだ。ひらがなから変換しなかったのは最後まで余っていた理性の自己防衛だった。

赤い文字で自殺を止めるための緊急電話番号が現れるがそれを無視する。フリーダイヤル、きみを見限って半年が経つよ。

切実にくるしんでいるこっちはひとりの人間なのに、電話の向こうで働く相手にとっては『だるい業務の一貫』みたいに流されるのがつらかった。「自殺を志願した理由は?」という事務的な問いにたいし、もちろんうまく答えられずにもごもごした。流暢に答えられる程度なら、おまえになんか頼るわけないだろ!おばか!と叫んで電話を切りたかった。

でも、そんな強気な行動はできないから「あ、いいです、はい、すいません、なんか、ね、」とぼそぼそ不明瞭な言葉を吐いて通話を切った。死にたさが加速した。

その方法はいくつかあったけど、どれもうまくいきそうにない。駅のホームに飛び込むのは残した家族に迷惑がかかりすぎてしまう。東京ドーム四つぶん、あるいは東京スカイツリー三本ぶんくらいの慰謝料が必要になるらしい。これで分かったと思うけど、私の言葉には一切の責任がない。

海で溺死するのも、ビルの屋上から飛び降りるのも、薬をがぶ飲みするのも、ロープで首を吊るにしても、自分が成功できる気がしなかった。何をやってもうまくいかないこの私が、自殺などという至難の業を一発で成し遂げるとは思えない。

むしろ自殺に失敗して中途半端に生き延びてしまい、入院生活でみんなに迷惑をかける想像は容易くできる。

お気に入りの香水を振って、お気に入りのネットラジオをスマホから流し、ビニール袋を被って窒息死を試みた。もちろんやっぱり息が苦しくなって、慌てて袋を外してしまった。ネットラジオはまだオープニングの地点だった。

死ぬ覚悟はあるのに、死ぬための苦痛を乗り越える覚悟はないらしい。この程度の息苦しさなんて、これから味わいつづける生きることへの苦しさとは比較するまでもないはずなのに。

私の初めてのチャレンジはもはや未遂にもならず、誰かにこの経験を話すこともなく終わってしまった。つまり何も無かったと同義である。

あえて事実を残すなら、私の中では確実に死ぬことへの距離が近づいた。全ての選択肢の一つに“しぬ”が追加された。よかったのかわるかったのかは判断できない。

生きにくい人生は今日も続く。私自身が終止符を打たない限り、永遠に続きそうだから恐ろしい。寿命が尽きるの、待ち遠しくてたまらない。いのちの灯火、誰か遠慮なく吹き消してくれ。



そして、死にたいと嘆いて百回目の夜がきた。
決意を固めた私が定めたのは、九月十三日の金曜日だった。

前日の夜、どうせ死ぬのになと思いながらお風呂に入り、習慣づいた手癖でしっかり髪も洗った。今さらキューティクルなど馬鹿らしいので小さな反抗としてトリートメントはしなかった。

洗浄のみがなされた髪が指の狭間で軋む。心同様、潤いが足りない。

「十三日の金曜日の午前二時、鏡と鏡を合わせると悪魔が現れる」
「悪魔はお願い事を何でも叶えてくれるんだよ」
「あなたの魂と引き換えに、ね」

これは幼い頃に父親から教わった、こわい話である。

ふと思い出したので試してみることにした。自力では死ねないし、だからって誰かにこんなこと頼めない。殺人に加担させてしまう。しかたないのだ。おしまいの人間が頼れるのは悪魔のみ。

九月十三日の午前二時、私は悪魔に魂を売り渡すことにした。その儀式のために選んだ場所は終電後も営業している不思議な喫茶店の一角、ちょうど壁が全面鏡になっている席だった。


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九月十三日午前一時。私はお気に入りのキャミソールの上にお気に入りのカーディガンを羽織り、「ちょっと友達と会ってくる」と親に伝えて家を抜け出した。寝ぼけた親が曖昧に返事をしてくれたけど、この挨拶が最後だったら寂しいなと思った。

真夜中も営業するそこの喫茶店は、そもそもテーブル席が三つしかない。あとはカウンターだ。

おひとり様の私は当然カウンターに通されたけど、面の皮を分厚くさせて我儘を言って鏡の隣の席にしてもらった。どうせあと一時間弱の魂なので、図々しい奴だと思われようがどうでもいい。

眠気覚ましのコーヒーと、それだけで居座るのも申し訳ないからサンドイッチを注文する。食欲がわかなくて、ひとくち食べて放置していた。

午前一時五十九分、スマホのアラームが鳴る。
私は大きな鏡に向かって、持ってきた手鏡をそっと合わせた。

正直にいう。あんな話を信じきっていたはずがない。
どうせ死ねないんだ。私なんて、そんなもん。

だから鏡のなかで、黒ずくめの物体がにゅっと現れた時には驚愕して息が止まった。確かに一瞬死ぬことができた。

「ここ、相席していい?」

声がするのは鏡の外だ。店員の制服であるお揃いのエプロンをつけている、黒髪のお兄さん。華奢だがかなり優等な二次元みたいな骨格に見惚れていると、彼は図々しく向かいの空席に座ってきた。

この人もこれから悪魔と会うのだろうか。でなきゃ、こんな大きい態度は絶対におかしい。

「店員さんじゃないですか」
「バイトの休憩中なの」
「自由に席に座れるんですね」
「うん、おれは特別」
「なんで店員なのにそっちがタメ口で、客のこっちが敬語なんですか?」
「知らん、おまえが勝手に敬語つかってる」

もしかして、普通にヤな奴なのかも。ただ顔がすごく綺麗で、なんていうんだろ、みんなが思い浮かべる綺麗な男の人ってかんじの顔をしている。だけど繊細に編まれたベールを一枚被っているみたいに、妙に顔立ちを認識できない。不思議だ。

ほら、それこそ、悪魔みたいな。

「休憩時間、どれくらいです?」
「十五分」
「大変失礼を承知でお聞きしますが、あなたって悪魔ですか」
「失礼すぎてびっくりした」

「魂と引き換えに願いを叶えてほしいんです。悪魔を呼び出したら、あなたが現れました」

短い時間なら、単刀直入に切り出すしかない。だって、この人は私が召喚した悪魔に違いないのだ。

「俺とおまえ、どっちが魂でどっちが願い?」
「私の魂をあげる代わりに、悪魔さんには私の願いを叶えてほしいんです」


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