将軍義輝死す! 凶報と密約の破綻に直面した上杉謙信は何を思ったのか
前々回は上杉謙信(うえすぎけんしん)の前半生、前回は将軍足利義輝(あしかがよしてる)の記事を紹介しました。この2人が戦国の世において、協力して乱世の終息を目指していたのがあながち絵空事ではないことは、記事中で述べた通りです。今回はいつもと異なりますが、将軍義輝の死に直面した時、謙信が何を思ったかを読み物風にまとめてみました。お読み頂ければ幸いです。謙信の後半生の記事は、次回ご紹介する予定です。
乱世終息のための密約
「公方(くぼう)様が…身罷(みまか)られたと申すか」
その知らせに、上杉謙信の心の裡(うち)にあった何かが、音を立てて崩れ落ちた。永禄8年(1565)の夏のことである。
「6年前、関白殿とともに3人で交わした約束は、もはや反故(ほご)になったということか」
約束とは謙信が、将軍足利義輝、関白近衛前久(このえさきひさ)と永禄2年(1559)の上洛(じょうらく)時に密かに結んだものであった。すなわち関東管領(かんとうかんれい)となった謙信が関東を平定後、その大軍を率(ひき)いて上洛し、幕府にはびこる奸臣どもを討伐、幕府を復興させて、戦乱の世を終わらせるというものだ。
以来、謙信はその密約を果たすべく尽力を続けた。永禄4年(1561)には関東にまで下向(げこう)した関白前久の支援も得て、北条(ほうじょう)氏の小田原城を11万5,000の大軍を率いて囲み、関東管領に就任。さらに信濃(現、長野県)川中島で武田信玄(たけだしんげん)と死闘を演じた。関東平定は想像していたよりも遥かに難事であったが、あきらめなかった。
密約の破綻
ところがそんな謙信に水を差したのが、関白前久である。ともに協力して関東経略を果たし、幕府支配を回復させようという矢先に、前久は謙信に相談もなく、永禄5年(1562)に単身帰京してしまう。上方の政情が深刻化していたのは確かだが、謙信にすれば、武田・北条を敵に回しての困難な関東経略の重荷を一人で負わされるかたちとなった。
そうした中、上方では将軍義輝が、三好長慶(みよしながよし)に実権を握られながらも、何とか将軍の権力を回復しようと努めていた。謙信への肩入れもその一つで、信濃を侵攻し、謙信と敵対する武田信玄を牽制(けんせい)する一方、謙信に自身の「輝」の偏諱(へんき)を与えて輝虎(てるとら)と名乗らせていた。
義輝とすれば、信頼する謙信が早く関東を平定し、上洛することを切に望んでいたのだろう。しかし、武田・北条を相手どっての関東経略は、それほど甘いものではなく、謙信をして苦しい戦いを強(し)いられていた。そんな矢先、将軍義輝は凶事に見舞われるのである。
永禄の凶変
越後(現、新潟県)春日山(かすがやま)城の毘沙門堂(びしゃもんどう)に籠(こも)り、灯明(とうみょう)に照らされた毘沙門天像を前に謙信は、義輝弑逆(しいぎゃく)の怒りを鎮(しず)めつつ、その最期に思いを馳(は)せていた。
変事は5月19日のことであったという。三好長慶亡き後、三好家当主となった三好義継(よしつぐ)と、実権を握る松永久通(まつながひさみち)、三好三人衆(三好長逸〈ながゆき〉、三好宗渭〈そうい〉、岩成友通〈いわなりともみち〉)らが1万の兵を引き連れ、義輝近臣の誅殺を求めて将軍御所に押し掛けた。
ただの要求でないことは、引き連れた軍勢の多さからも明白である。三好らの真の狙いは、義輝の将軍職退任、もしくはその命であった。実は松永や三好一党が義輝を危険視した理由に、謙信の存在がある。義輝は謙信の関東静謐(せいひつ)を実現すべく、永禄7年(1564)と死の直前の二度、北条氏康(うじやす)との和睦(わぼく)を呼びかけていた。もし実現すれば、謙信の再度の率兵(そっぺい)上京が可能となる。三好らは、それを最も恐れていたのだった。
押し寄せた三好らの軍勢を前に、義輝はすべてを悟った。御所内にいた女や子供を逃がすよう指示すると、自らは烏帽子(えぼし)に鉢巻を締め、僅かな側近たちとともに、御座所にて敵を待つ。畳には、いく振りもの抜き身の太刀が突き立ててあった。いずれも将軍家に伝わる名刀ばかりである。
やがて三好の手勢が武具を鳴らして殺到し、庭で側近たちと衝突する。義輝も自ら庭に降り立つと、敵兵がここぞとばかりに槍を突き出した。しかし、血しぶきをあげて倒れたのは、雑兵(ぞうひょう)どもである。足利義輝は、剣聖・塚原卜伝(つかはらぼくでん)より「一(ひとつ)の太刀」の極意を授けられた、剣豪将軍であった。
義輝の剣が舞うたびに、三好勢の将士が伏していく。数人斬って刀身に血脂が巻くと、義輝は次々に刀を取り換えて敵に対峙した。軟弱かと侮(あなど)っていた公方の尋常でない強さに、三好勢はたじろぐ。が、数に物をいわせて戸板を盾(たて)に接近、四方から覆いかぶさって義輝を押し倒し、そこへ一斉に槍を突き入れたのだった。
13代将軍足利義輝、享年30。
「義」が明らかとなる世のために
「おいたわしや。さぞや無念でござりましたろう。身どもが京にあって、お護(まも)りしとうござった」
義輝の笑顔を胸に浮かべ、謙信がつぶやいた時、灯明の炎が揺れ、毘沙門天像が手にする刃が、一瞬、光を放った。謙信にはそれが、義輝の意思であるように感じられた。
--輝虎よ、手勢すら持たぬ余でも、奸賊を相手に最後まで闘うたぞ。悪(あ)しき企みは断じて許さぬ。義を示すが、将軍たる者の務めであろう。関東管領たるお主は、どうじゃ…。
謙信の両眼から熱いものがふきこぼれた。
「さようでござりましたな。我らが目指していたのは、戦乱の終息。力がすべてと申す輩(やから)の好き勝手が許される世ではなく、人としての『義』が明らかとなる平穏な世でありました。ならばこの輝虎、公方様のご遺志をも受け継ぎ、務めを果たして参る所存にござる」
謙信は、将軍義輝から約束を託されたことを確信した。ならば、その実現のため、戦い続けるのみ。立ち上がり、堂の扉を開いた謙信の目には、強い光が宿っていた。
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