リスク管理と環境の質
学校が抱える『管理』の重さ
学校というものが子どもを預かるようになって久しいですが、現代においても保護者や社会が学校に求めるハードルは上がり続けています。
その一つが、子どもの安全管理についてです。
自殺者が出ると学校が会見を開きマスコミから責任を問う質問が飛ぶ様子を見ても明らかなように、今や最低でも家を出てから家に帰るまでが学校の管理責任範囲と見なされています。
しかし、それがいろんなことを萎縮させていると感じます。
ケース例
身近にあるケースを改変して例にあげます。
中3の女子で、少し知的には低めの子です。小学校高学年ごろから勉強についていけなくなり、中学では本格的にちんぷんかんぷんになっています。もちろん授業が楽しい訳もなく、教室にいるのが苦痛なレベルで、徐々に保健室や相談室で過ごす時間が増えてきました。
親はその状態に薄々感づいているものの、子どもが言う「大丈夫」「ちゃんとやってる」を信じたいがゆえに深掘りはせずに流している状態。
人に迷惑をかけないので学校もこれまではスルーしてきていましたが、いよいよ本人が辛くなってきたので、介入せざるを得ない状況まできました。
本人はたまに「死にたい」と言ってみたりしていますが、切迫感には乏しい。しかも「まあほんとに死ぬ勇気はないけどね」とうそぶく時もあったりします。
しかし、子どもの「死にたい」を拾ってしまった学校は大変です。フローチャートにのっとり、「死にたい」発言をした子どもが発生したことを教育委員会に報告し、然るべき対応を取ります。子どもが教室にも学校にもいられず帰ろうとすると、誰かをつけて帰さなくてはなりません。下校途中にトラブルが起こってはならないからです。
しかし先生たちは手一杯で、付き添える人がいません。仕方ないので無理やり1時間ほど待たせて、学年の担当教員が送って帰すことになりました。
リスク回避のよんどころなさ
さて、これ。どうでしょうか?
この子の暮らしに役立つ関わりができたでしょうか?
もちろんリスクは最大限に回避したと思います。でもその代償として、この子への意味のある関わりやこの子の自由度はとても減ってしまったのではないかと思います。
この場合、この子と大人とのコミュニケーションの中で、『死にたいというコメント』をどう扱うかがキモです。
ひとたび大人がこの単語を聴くと、対応しなくてはならない現実がある。身の安全を確保して、保護しなければならなくなってしまう。
中高生の「死にたい」は、比較的ライトなことが多いです。だから軽視していいという訳ではもちろんないですし、緻密なアセスメントは欠かせまいさせん。しかし、大人がそれに過剰反応して彼らの行動を制限することが、本当に彼らのためになるのでしょうか?子どもの言葉の微妙なニュアンスを拾い上げて、対話の中でリスク評価をして、そして彼らの暮らしの質も考慮したうえで取るべきリスクは取るべきだったのではないでしょうか。
リスクを取るという選択肢はアリか
ケースのリスクは様々ですし、正直思春期の自殺は予兆がないことも多々あります。これを温度感でハカるのはとても難しいし、リスクをゼロにする見立てはほぼ不可能と言っていいでしょう。
しかしそれでも子どもの未来のために取れる範囲のリスクを取るという選択肢だってあってもいいはずです。
リスクが取れないと、何もできません。
事故に遭うかもしれないから家から出られないし、
喉に詰まらせるかもしれないから固形物は食べさせられない。
でもそれが、トータルで考えた時にその人の人生のためになるでしょうか?
自殺と比較するのはやや乱暴かもしれませんが、本質的には同じことだとは思います。
責任やリスクの話はもちろんあるものとして、しかしそれでもその子のために最善の選択肢を選べる環境があれば良いのにと願ってやみません。