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三木清「人生論ノート 幸福について」を読んで

三木清先生の「人生論ノート」の中の「幸福について」の章を読んで感想を書きます。
いちばん印象に残ったのは次の箇所。

幸福について考えることは、既に一つの、おそらく最大の、不幸の兆しであると言われるかもしれない。健全な健全な胃を持っている者が胃の存在を感じないように、幸福であるものは幸福について考えないと言われるであろう。しかしながら今日の人間は果たして幸福であるために幸福について考えないのであるか。むしろ我々の時代は人々に幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸なのではあるまいか。幸福を語ることが既に不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に満ちているのではあるまいか。しかしながら幸福を知らない者に不幸のなんであるかが理解されるであろうか。今日の人間もあらゆる場合にいわば本能的に幸福を求めているに相違ない。しかも今日の人間は自意識の過剰に苦しむとも言われている。その極めて自意識的な人間が幸福についてはほとんど考えないのである。これが現代の精神的状況の性格であり、これが現代人の不幸を特徴付けている。

三木清「人生論ノート 幸福について」

 この文は昭和13年の7月に出版されているので引用文の中に書かれている現代とは昭和13年(1938年)頃のことだと考えた方が正確だと思います。これを読んでみて思ったことは、「現代(2020年代)も一緒じゃん」と言うことです。
 そういえば自分の幸福ってなんだろう。私はこのことについて考えたことはなかったかも知れません。なんとなく「ホメラレモセズ、クニモサレズ、サウイウモノニワタシハナリタイ」くらいにしか思っていなかったですが、それは宮沢賢治さんにとっての幸福(なのかも知れない)であって私の言葉で語った幸福ではないのです。
 周りやネットを見回してみてもそこには自分の幸福は落ちていません。例えば簡単に儲かる副業とかフォローワーが増える方法とか健康に100歳まで生きる方法とか…幸福っぽい情報はたくさん落ちていますが、自らが主体者として「お金をいっぱい持っていることが私の幸福である」などとと定義したことはないかも知れない。その辺りについて考えてみたくなりました。 

 考え方のヒントとして何となく次の言葉は使えそうです。

ある人間の状態をその幸福さによって評価しようとするならば彼を満足させるような事柄ではなく、彼を悲しませるような事柄をたづねるべきである

ショウペンハウエル「幸福のためのアフォリスメン」

 ショウペンハウエルはその人が幸福であるかどうか考えるならば、逆に悲しませるような事柄が何なのかを問うべきだと言いました。ある人間を”自分”と仮定してみると、「自分が悲しむことは何なのか」が自分の幸福を定義するために自分に聞くべき問いになるかも知れません。例えばお金があることが自分の幸せであるかも知れないと仮定した場合には、「もしお金がなかったら自分は悲しいのか、どの程度のお金があれば悲しみがないか」について問うてみればいいということになるでしょうか。ちなみに

人の不幸というものはほとんど反省によってのみ生まれる

ジューベル「パンセ」

という言葉も見つけましたので。自らに自分の幸福とは何かを問う際に、過度に反省をしない方がいいかも知れません。


幸福と不幸は井戸の二つのつるべである ドイツのことわざ


 「人生論ノート 幸福について」の章を読んで思ったこと

  • 少なくとも100年近く前の人も幸福について悩んでいたのかも知れない

  • 自分にとっての幸福とは何かを落ち着いて考えてみてもいいかも

※このnoteは個人の感想を記しています。厳密な調査や資料の読み込みはおこなっておりませんのでご了承ください。


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たかみいと
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