中世最盛期の国家と宗教〜絶大な力を誇るキリスト教
強大な教会権力
中世ヨーロッパの哲学の状況を知ろうとする場合、どうしても避けて通れないのが、当時のキリスト教の教会権力についての理解です。中世最盛期の教皇、イノケンティウス3世(在位1198〜1216)は当時の強大な教皇権を実現、「教皇は太陽、皇帝は月」との言葉を残しました。
かの有名な「カノッサの屈辱」は教皇グレゴリウス7世に破門されたドイツ皇帝ハインリッヒ4世が北イタリアのカノッサ城で雪中に許しを請うた事件として知られています。これはイノケンティウス3世の時代から100年ほど前の出来事であり、教皇がどれほど絶大な力を持っていたことがよく理解できる事件と言えるでしょう。
教会の腐敗と修道院運動
9世紀から10世紀にかけて聖職者の地位と、それに伴う世俗財産(領土を含む)の売買が盛んに行われていました。この傾向に対して、教皇グレゴリウス7世がこれの禁止令を出したがおさまることはありませんでした。
以上のような教会の腐敗と堕落に対して、信仰と勤労(特に修道院所得のぶどう園栽培)による質素な生活を目指した修道院運動が生まれる。特に1209年創立されたフランチェスコ修道会、1215年に創設されたドミニコ修道会が有名である。ところがこの修道院もまた封建領主化し、腐敗と堕落の道を歩む。修道院長が複数の修道女を妾にして多くの私生児を産んでいたことなど数え切れない。ドイツ映画「薔薇の名前」という中世修道院を舞台にしたミステリーがありますが、この作品は当時の教会の腐敗を痛烈に批判しています。
https://www.youtube.com/watch?v=baFvJCHOc3M
このような修道院の腐敗堕落を批判した者は、異端として火あぶりの刑に処せられていたのです。
哲学は神学のはしためだが…
中世初頭では、神学をいかに哲学的に基礎付けるかに関心が払われていました。しかし、この関心は当時の西欧人には不可能でした。というのも、当時の西洋人は文化程度も低く、ギリシャ哲学の理解などはほとんど不可能になっていたからです。それに反して、当時のイスラム教徒ははるかに高い文化を誇っていました。
かつてのギリシャ哲学について、イスラム教徒は受容していました。例えば、アリストテレスの哲学は、彼らイスラム教徒にとって保持されてきていたのです。しかし、一方、西欧の神学者は拒否、というより理解不能になっていたのです。したがって、中世初頭までの文化は、イスラム教徒の方が西欧の神学者を上回っていました。
しかし、十字軍、あるいは西側のスペインを支配していた「コルドバ回教団」からの刺激によって、西欧側も次第にかつてのギリシャ哲学に関心を寄せるようになっていきます。しかし、これは頑ななキリスト教文化にとっては痛し痒し、であったと言って良いでしょう。