ルネ・デカルト(1596から1650)〜近代哲学の真の創始者
デカルトはフランス、トゥレーヌ州の法服貴族の身分として生まれた。10歳でイエズス会主宰のラ・レフレーシュ学院で学ぶ。しかし、この学院での学びは、生きていくために何の保証も与えてくれないものであることにデカルトは気づく。この学院で、彼は「数学」にのみ、確実な学問として心惹かれたという。その後、ポワティエ大学で法学士となったが、やはり数学以外の学問には全て失望したという。(法服貴族の身分であるから、この称号はぜひとも必要であったのであろ。)
その後、デカルトはオランダにも赴く。ここで、彼は当時高名であったヴェークマンと出会い、このヴェークマンから「物理学・数学」の研究にますます熱を入れるよう刺激を受ける。しかし、デカルトの世間を知ろうとする情熱はとどまるところを知らなかった。彼はオランダからドイツにわたり、ここでなんとカトリック軍として高名であったバイエルン(首都ミュンヘン)王国軍に入り、ドイツ30年戦争にも参戦する。
その後、フランスに戻る。フランスでは、数学的自然学、そこから屈折光学の研究に精を出すようになる。このようになったのが、代数学と幾何学を合体させた「解析幾何学」であり、「光線屈折の法則」である。これは今日といえども、真理として学校教育では教えられている。
1628年頃から、ほぼ20年間オランダに移ったデカルトは自然学の研究に精を出す。その上、1633年には「光論」と「人間論」を含む「宇宙論」を完成させていた。しかし、同年、あのイタリアのガリレオ・ガリレイが地動説の著作「天文対話」を発表するや、当時の教皇ウルバヌス8世の忌憚に触れ、異端審問所で断罪される事件が起こる。ガリレイに有罪の判決がなされるや、ガリレオは公式には謝罪したが、「それでも地球は動く」とつぶやいたのはこれまた有名なエピソードになっている。
このガリレイ事件に触発され、デカルトは身の危険を感じ、あの「宇宙論」の出版を取りやめたという。そのかわり、デカルトは従来の「屈折光学」「気象学」「幾何学」の3つの「試論」に「序文」として「方法序説」をつけた。1637年のことであった。この中の一文が「近代哲学」の誕生を告げる第一声となる。オランダのライデン市でまず匿名で発表された。オランダにはローマ教皇の権力は及ばない。しかし、すぐこれがデカルトの著作であることが判明する。
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