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【読書記録】「世界哲学」のすすめ(筑摩新書、納富信留著)

「こんな哲学の見方があるんだ」と気づきを与えてくれる本だった。そして、とても読みやすい。こう書くと、新手の初心者向けの入門書と思うかもしれないが、そうではない。

本書は、「哲学」を開いていく本である。なぜ、哲学を開いていかねばならないのか? それは、哲学が硬直化した学問であるからだ。

そもそも日本の大学で「哲学科」というと、西洋哲学を学ぶところを指す。そこには、インド哲学や東洋哲学が含まれることはない。哲学とは、ドイツ、フランス、イギリス、北米の人たちのみの思索であり、それ以外は哲学とは認めないと言わんばかりに、「哲学」とは排他的で限定的な学問として扱われてきた。

でも、それって、そもそも哲学のあり方としてどうなのだろうか? と本書は疑問を投げる。
 
すべての人には、哲学をする権利があるはずだ。哲学は一部の国や地域の人のものではない。アフリカにはアフリカ哲学があったっていい。実際、本書には、これまでなかったことにされてきた、もしくは無視されてきたアフリカ哲学が紹介されている。

では、この本の目指す「世界哲学」とはどのように定義されるのか? 「世界哲学」を模索する際、ぶつかるのが「哲学の普遍性とは何か」という問いである。

哲学の普遍性には2つの意味がある、と本書はいう。

真理と知恵真理を目指し知ろうと求めながら、より善く生きること、それが哲学だとすると、そこには必ず普遍性が認められるはずです。哲学の普遍性には二つの意味が区別されます。第一に、「哲学」が時代や文化や言語を問わず、人間が思考し生きる限り普遍的に営まれるという意味と、第二に、哲学が「普通性」を対象や目標として持つという意味です。第一義では、「哲学」を持たない時代や文化は存在しないという含意があります。第二義では、「普遍性」をテーマにしない哲学は存在しない、あるいは、それは哲学ではない、ということになります。

ただし、哲学に普遍性(universality)を求めれば求めるほど、ディレンマに陥る。西洋以外を切り捨ててきた哲学に、普遍性があるとは言えない。さらに、西洋哲学の本質を「普遍性にある」と見なすのであれば、そもそもその特殊性こそ普遍的ではない。

哲学の普遍性に基づく「世界哲学」を切り開くため、このディレンマを克服する必要があるとし、著者は本書の中で「普遍」とは何か? という問いを立てていく。

ギリシャ哲学は西洋哲学の起源?

著者は、ギリシャ哲学を専門とする研究者であるが、そもそも「ギリシャ哲学が西洋哲学の起源」という考え方に異論を唱える。ギリシャ以前にエジプトやメソポタミア時代があったではないか。また、紀元前7世紀以前のギリシャをも無視していることにもなりかねない。

東ローマ帝国が存続したビザンツでは、ラテン語ではなくギリシア語が用いられたため、プラトンやアリストテレスを中心とする古代哲学はより完全な形で継承されたこと。カトリックのラテン中世が、プラトンやアリストテレスを限られたラテン語訳を通じてしか知らなかったのとは対照的に、ビザンツやその勢力圏にあった南イタリアなどでは、彼らの著作が書写され、学校などでも教えられていたことについて触れている。

さらに、日本ではあまり知られていないが、ビザンツで受け継がれたプラトンや新プラトン主義の哲学がアルメニアやジョージア、ロシアといった東方キリスト教に流れこみ、独自の伝統文化を作ったことも記述している。

また、アリストテレスやギリシャ科学がのちのイスラーム哲学に大きな影響を与え、その哲学的刺激が13世紀にイベリア半島経由でラテン中世に至り、スコラ哲学を活性化させたことを紹介。ギリシャ哲学が多くの文化の形成に影響を与えたことを考慮すれば、ギリシャ哲学を西洋哲学が独占していることは歴史的事実に反すると主張する。

最後に、世界哲学にとって重要なのは「対話」であるという。対話とは、対等な者同士が一対一で行うもの。であればこそ、植民地主義や昨今の英語一元主義の中で多くの不平等主義や無視が広がってきた哲学の世界において、異なる主体が参画し、議論や対話をしていくことこそ、「世界哲学」の道が開かれる、と著者は結論づける。

哲学の知識が今ひとつという人でも、哲学という学問を捉え直すことのできる書籍だろう。


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