こんにちは、タカキです。久しぶりの投稿になりました。というのも、2022年4月にアートを通じた文化振興を図るためのNPO法人を立ち上げまして、文章はそちらの方で一生懸命書いておりました。
こちらです。フォロー頂けると幸いです。
さて、今回は、2023年1月に91歳になった祖母について書いていこうと思っています。
祖母は91歳
祖母は76歳の時、夫である僕の祖父を亡くし、それからしばらく一人で暮らしていました。
15年位前に、娘である僕の叔母が都会から帰ってきて、祖母はそれからずっと叔母と2人で暮らしています。
僕はよく実家に帰るし、月に1回くらいは親族みんなで食事をするので、「急に老けた」とか「急に元気がなくなった」とか、祖母について大きな変化は感じません。
しかし、祖母はじわじわと身体が弱くなっているし、じわじわと認知症が進んでいます。
最近は、覚えていた曾孫の名前を忘れてしまっているようで「あんたのところの上の子」とか「あっちのところの下の子」などと子たちのことを呼んだりしています。
それでも、曾孫たちの存在を覚えてくれているだけ有り難いなと感じているのですが、最初は皆の名前を覚えていただけに、認知症の恐ろしさをじわじわと実感している次第です。
おそらく幸せな91歳
一方で、祖母はやりたいことしかやらないし、話したいことしか話さない「無双モード」に突入していて、とても幸せそうです。
親族で集まって食事する時、僕らが何かを言っても、言うことを聞かないし、雰囲気に関係なく、自分の思い出を急に話し始め、話し終わると満足した顔をしています。
別に嫌ではないのですが、他の家族が話をしている時に、全く関係のない話をされると、話が中断してしまいます。
僕らとしても、明らかに僕らよりも先が短い祖母にとって、残りの人生(時間)を幸せなものにしてあげたいとは思うので、祖母の話を優先するのですが「その話、もう10回目!」みたいなことがよくあります。
周りの人に溜まっていく疲労
親族で集まると、叔母の口からは愚痴がこぼれます。
先日、祖母と叔母が暮らす家に行って、祖母と一緒にご飯を食べました。
というのも、叔母が友達とランチに行く約束をしていたので、祖母が一人でご飯を食べなければならなくなったからです。
叔母は、僕らの食事の食材の準備をしてくれた後、ランチに行きました。
ですので、僕がそれらの食材を調理し、子どもたちと祖母の昼食を作りました。
食事の調理自体は、大変ではなかったのですが、少し気になることがありました。
いつもより家が汚くなっていたのです。
日々の疲れや精神的な疲労の蓄積は、生活の中に出るはずです。さらに、よく考えると叔母は65歳を過ぎています。
ベタベタする台所を歩きながら、叔母の中で蓄積する疲れを感じました。そして、祖母よりも、叔母のことが心配になりました。
子どもみたいに預けるわけにはいかないのか?
僕は妻と2人の子と一緒に暮らしています。僕と妻の仕事が大変な時は、どうしても疲れがたまり、子どもたちの遊び相手にもなってあげれず、また、家の中もかなり散らかってしまいます。
そんな時、僕の母が実家で子どもたちを世話してくれたり、また、僕の弟夫妻の家で子どもたちを預かってもらえる時は、とても有り難いです。
何より、僕と妻それぞれ1人の時間、もしくは僕と妻と2人の時間が作れることが、本当に有り難く感じます。
叔母にとって、先日の友達とのランチがそんな時間になってくれていたら良いなと思います。
一方で、自分の時間を作るために、子どもを預かってもらうことって比較的一般的ですが、高齢者を預かってもらうことって、あまり一般的ではないような気がします。
デイサービスや通所介護がそれにあたるのだとは思いますが、それらは要介護者に対するサービスなのだそうです。ちなみに僕は、福祉の関係に全く携わったことがないので、知らないことだらけ。
この辺が介護全般のことを書いている厚労省の資料かな。
https://www.mhlw.go.jp/content/12300000/000608309.pdf
僕自身38歳になり、両親は65歳を間近に迎え、祖母は90歳を超えるこの状況になって、昨今言われ続けてきた介護の問題に直面しました。
一つ解決すべき社会課題を知ることが出来て、勉強せねば、と思う今日このごろです。
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