「ユウキはさ、どこに住んでんだっけ?」
もう5回目になるその質問に対して、
「バイパスのイオンの裏のところです」
と初めて答えるかのように元気よく答えた。
上司のことを本当に信頼しているような口調で、上司が言ってほしいことを言う。上司が求めている意見を常に考え、自分の意見は言わない。
上司と部下との関係は、このようであるべきだと僕は思っている。
「へー、経理のユリもあの辺って言ってなかったっけ?」
「はい、確か、そうだったと思います」
このやりとりも5回目だ。
福岡県から山口県萩市までの出張の道中、あと何度こんなやりとりをしなければいけないのだろうか。
だから僕は、話しかけるべきタイミングが来るまで黙っていることにした。上司はスマホをいじっている。着くまでずっといじってろと思った。
僕の会社では教材を作っている。教科書や資料集に出てくる「人、場所、もの」をより詳しく解説する教材だ。
今回の出張は、山口県萩市にあった松下村塾についての資料を集め、いくつか風景写真を撮ってくることが目的だった。
車は関門海峡に差し掛かった。関門橋は福岡県北九州市も山口県下関市を隔てる関門海峡の上を通る橋で、海面から141メートルの高さがあるらしい。
通るたびに、「強風に煽られて、車が吹っ飛んで行ったら、ひとたまりもなく死ぬだろうな」と想像し、緊張して、顔がこわばる。
多くの人たちがこの橋を平気な顔して渡っている。僕がおかしいのか、他の人の感覚が麻痺しているのか。
「みんな、死と隣り合わせなのに」
「ユウキ、何言ってんの?」
上司が笑いながら聞いてきた。独り言を言ってしまった。
「いえ、すみません。独り言でした」
「ユウキ、ヤバイね。死と隣り合わせって、この橋のこと?」
「はい、そうです。多分、僕、高所恐怖症なんですよね」
「そうなの!へー。なら怖いよね」
そう言ってまたスマホをいじり始めたが、すぐにやめた。
「ところでさ、ユウキ。吉田松陰は馬鹿だよなー。そう思わない?」
「はあ、そうですねー、どうなんでしょう」
どう答えるべきか、急いで考えないといけない。まず、こいつが僕の名前を下の名前で呼んでいることを考える。
もしかしたら、明治維新頃の下の名前で呼ぶ文化に影響を受けたのかもしれない。そうなると、吉田松陰は、その時代の重要人物だ。
「でも、偉大な人だと僕は思います」
「そう?塾をした以外、特に何もやってないんじゃなかったけ?」
本気で言っているのか、はたまた、探りを入れているのか、判断しかねた。
「はい、そうかもしれませんが、教え子たちへ、とても影響を与えているので」
「まあ、そうかもしれないけどさ、本人は何もやってないよね」
どうやら本気で言っているようだった。
「はあ。そうかもしれないですねー」
「次のパーキングエリア寄ってよ。トイレ行きたい」
「了解です」
パーキングエリアに着くと、上司は何も言わずにドアを開けて、トイレに向かった。
イライラしていた。タバコを吸いたかった。スマホを見ると4月1日の午前10時10分だった。
僕はギアをドライブに入れ、アクセルを踏んだ。パーキングから高速道路本線に合流する。
道路は空いていて、実に軽快だ。このまま、萩市に向かう。
「いやー、エイプリルフールだったんで、そういうフリかと思いました」
この言い訳はどうだろうか。悪くないとおもう。僕はスマホの電源を切って、アクセルを踏み込んだ。