Je t'aime, moi non plus.(ジュテム、モワノンプリュ)
前回は「上から訳すか下から訳すか」というような主題で書くつもりだったのですが、翻訳はたんに外国語の語句を日本語の語句に置き換えるのではないというような一般論に流れてしまいました。
じつは念頭にあったのは、以前自宅でやっていた私的な翻訳塾で「英語は下から訳すけれど、フランス語は上から訳す」ということに拘泥している塾生さんのことでした。
この質問をした人は、某有名私立大学の通信講座でフランス文学を専攻した人で、フランス語検定の2級を持っていました。「英語は下から、フランス語は上から」と教えたのは通信教育のフランス語担当の先生だったそうです。
これを聞いて、みなさんはどう思うだろう。翻訳にそれほど興味のない人は、ふーん、そんなもんかと思うだけかもしれない。でも、翻訳とは言わないまでも、多少なりとも語学に関心があれば、ほぼ同じ文法構造を持つ言語なのに、それを日本語に訳すときに異なる作法があるのは妙ではないかと感じる人もいるのではないだろうか。
同じ文法構造というのは、そんなに難しいことを言っているわけではなく、例のS(主語)V(述語)O(目的語、もしくは補語)のことです。これは原則的にフランス語も英語も変わりありません。それなのに「英語は下から、フランス語は下から」というのはどうもおかしい、と思うのが普通だと私は思います。
おそらくこういうことを教えた先生は小学校から大学までずっと優等生で過ごしてきた人なんでしょう。そして、それを鵜呑みにした人はとても素直で、なおかつ権威を疑いなく信じてしまう人だったのでしょう。
繰り返しますが、どんな場合においても——少なくとも欧米の言語を日本語に翻訳する場合——上から訳すか下から訳すか、そういう規則は存在しません。それは文脈に応じるものです。あるいは著者の意図をどう汲み取るか、それをいかにわかりやすく日本の読者に伝えるかというところに関わる問題です。
でも、ここではこの問題にこだわるのはよしましょう。かつての塾生さんの名誉に関わる部分でもありますし、通信教育は信用するなと言っているように誤解されても困るからです。
なので、ここでは翻訳という作業においてもっとも重要なポイントを、フランスのとても有名な楽曲(ジャンルとしては、いわゆるフレンチポップス)の歌詞を通じて、少し説明してみましょう。この曲は有名というより、悪名高いと言ったほうがいいかもしれません。なにしろ発売当初は放送禁止にした国もあったというほどの際どい曲ですから(この曲自体はYouTubeや音楽サイトを検索すれば、すぐに出てきます。くれぐれもお子さんの前では再生しないように)
タイトルはずばり、Je t'aime moi non plus。
まずこれが翻訳不可能(たぶんほかの言語でも)。なぜなら、Je t'aime(=愛している。I love you.)という肯定文と、moi non plus という本来否定分に対応する副詞句が結びつかないから。
この副詞句は、たとえば、Je ne connais pas ce professeur.(ぼくはその先生知らないよ)という発言に対して、Moi non plus.(ぼくも知らない)というふうに受けるときに使うものです。
「ぼくもまたきみを愛している」(Je t'aime, moi aussi.)というのならわかります。「ぼくもまたきみを愛してない」(Je ne t'aime pas, moi non plus)というのもありえます。でも、Je t'aime, moi non plus. は文法的にありえない。破格というよりも、間違い、あるいは異様。それを承知で、受けを狙ってのタイトルなんでしょう。
冒頭はジェーン・バーキンのささやくような声で、次のように始まります。
この3行目のセルジュ・ゲーンズブール——この作曲家、歌手について関心のある方はご自身で検索してみてください。ここは一九六〇年代に一世を風靡したスキャンダラスな作曲家、作詞家、歌手を紹介する場所ではないので——が歌うところが問題です(以下、男のパートは太字)。
「ぼくは全然」とか「ぼくのほうはまあまあ」とか訳している人もいるようです。ま、しかたありません。翻訳不可能なんですから。
なぜ、不可能か? もちろん文法的に異常だからです。でも、この曲を聴いたフランス人は全員理解したと思います——少なくとも大人なら。
これは「ぼくもだめだ」と言っているのです。ということは、Oh oui, je t'aime と、今まさに絶頂寸前のようなかすれ声で歌うジェーン——セルジュの生涯のパートナーだったこの女性歌手についても、知らない人はご自身で検索してみてください——のセリフと、セルジュの Moi non plus のあいだには、Oh je ne peux plus(ああ、わたしもうだめ)というようなセリフが隠されているということです。あるいはジェーンの Oh oui, je t'aime というセリフ自体に「ああ、いい、わたしもうだめ」のメッセージが込められていると考えてもいいかもしれない。
なぜなら、この歌詞はセルジュの声で、次のように展開していくからです。
解説は無用でしょう。そのものズバリです。翻訳もほぼ直訳です。そしてまた冒頭の歌詞が繰り返される。
次はジェーンの声で——あるいは女性の側からの視点で——こう続く。
まぁ、あきれたもんです。そしてまた冒頭の歌詞の繰り返し。
そしてまた、第2連目のセルジュのかすれ声が戻ってくる。
それから次の歌詞がやってくるまで、けっこう長い時間——二十秒以上!——ジェーンのため息のような喘ぎのようなリアルな睦み声が続いて、また前の歌詞が戻ってくる。
そしてまた冒頭の歌詞に戻る。
こうして歌も愛もついに絶頂を迎えます。
これで終わり。あとはまたしばらく喘ぎ声が続きます。
やれやれと思った方もいるかもしれません。また「フランスの女」の世界に戻ってしまったような気もします。でも、これは翻訳にとってとても大切なことです。
この Je t'aime moi non plus というタイトルは作者セルジュ・ゲーンズブールのいたずらですね。文法的には結びつかないものを結びつけているわけですが、言葉は生き物です。結びつかないものが結びつく。とりわけ男女のベッドの上では。その短絡に架かる見えない橋のようなものを、想像力を駆使して見つけていく。それが行間を読むということです。と同時に、テクスト全体——長編小説であれ、一編の詩であれ——を俯瞰することが肝要です。そうしないと細部の意味も見えてこない。
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どうしてこんなことを思いついたかと言えば、先週土曜日(11月4日)の朝、いつものようにNHKR1の「マイあさ」を聴いていると、「サタデーエッセイ」でミュージシャンの大貫妙子がしゃべっていた。一時期パリに住んでいたことがあって、ラジオを聴いているとジェーン・バーキンの曲——ここで取り上げたのとは別の曲です——が流れてきた。アレンジがとてもよかったので、そのアレンジャーの名前を突き止めて、自分の曲のアレンジをしてもらうよう交渉したという話をしていた。ジェーン・バーキンという名はどこかで聞いたことがあったけれど、どんな歌を歌っている歌手なのか思い出せなかった。ネットで検索してみると、なんとあのスキャンダラスな曲を歌った歌手ではないか! この歌は高校時代に聴いて、当然のことだけど、あまりに生々しくて忘れようにも忘れられない歌だった。
そして、あらためて歌詞を追っかけ、文字で読んでみた。
???!!!
その答えとして、この投稿のような結論になったわけです。