見出し画像

フランスの女(その1)

 今回もまた、旧ブログ(新十勝日誌)からの転載です。最終的には六回連載されたものです。しばらくお付き合いください。

 新たな試みに挑戦しようかと思います。何回続くか見当がつきませんが、一冊の本のハイライトシーンを選んで、このブログで紹介しようという試みです。
 本のタイトルは『フランスの女』(早川文庫、一九九五年)。表紙にはレジス・ヴァルニエ著、高橋啓訳と記されているけれども、この本は通常の翻訳作品とはちがうので、少し説明します。
 レジス・ヴァルニエという著者については、映画ファンなら心当たりがあるでしょう。一九八六年にジェーン・バーキン主演の『悲しみのヴァイオリン』で映画監督としてデビューし、カトリーヌ・ドヌーヴ主演の『インドシナ』で一九九三年のアカデミー賞外国語映画賞、セザール賞では主要五部門を総なめにするという快挙を成し遂げたフランスを代表する映画監督のひとりです。
『フランスの女』はこのレジス・ヴァルニエの第四作目で、フランスで一九九五年に公開され、同じ年に日本でも公開されました。主演はエマニュエル・ベアール。ハリウッド女優にはない、なにか妖しさと危うさを秘めた、少し翳のあるブリジット・バルドー——若い人は知らないでしょうが——のような女優でした。
 じつはわたしは、このベアール主演の映画作品を二度にわたって「翻訳」しているのです。一作目は『愛を弾く女』(早川文庫、一九九三年)、二作目がこの『フランスの女です』。わたしが原作を翻訳したという体裁で本は刊行されていますが、出版業界ではノヴェライゼーション(映画の小説化)と呼び習わされているジャンルの仕事です。

この仕事のための素材として訳者に与えられたのは、映画作品そのものとシナリオ、そしてプレス資料だけでした。その意味ではこのテクストは翻訳というより、いわゆるノヴェライゼーションと呼ぶべき作品ですが、映像とそれによって喚起された情動を言葉に書き写す作業という意味では、わたしは翻訳の延長だと考えております。

『フランスの女』訳者あとがき

 これを書いてから二十四年、ほぼ四半世紀の歳月が流れたのかと思うと、気の遠くなるような目眩にも似た気分に襲われます。当時わたしは四十歳を超えたばかり、東京で所帯を持ち、子供たちはまだ小学生か中学生、とにかく物を書く仕事で、金になることであれば何でもやった。戯曲の翻訳もやったし、大手ゼネコン会長さんの発明自叙伝のゴーストライターまで頼まれたことがあった。
 翻訳であれ、ノヴェライズであれ、ゴーストライターであれ、世を忍ぶ仮の姿とはいわないまでも、その仕事に価値があるかないか、それが本業であるかないか、そんなことはお構いなしに、でも怖いので、目をつぶって清水の舞台から飛び降りる(?)ようなつもりで、与えられた仕事にぶつかっていった。後は野となれ山となれ、です。
 野となったのか、山となったのかはわからないけれども、今は、こうして生まれ育った町に帰ってきて、老いた母と二人で暮らしています。
 過去を振り返っている余裕はない。でも自分の立ち位置を確認する作業は、フリーランスという職業につきまとう業のようなものかもしれません。
 自作の解説は野暮でしょう。まずは冒頭の数ページをお読みいただきたい。

 *

 幼いころ、ジャンヌは祖父に愛された。
 ジャンヌはいつも祖父の膝の上にいた。祖父が庭に面したテラスに背の低い籐椅子を出して日向ぼっこをはじめると、どこからともなくジャンヌがやってきて、その膝の上にちょこんと座った。祖父は盲目だったが、話はことのほか上手だった。ラ・フォンテーヌの寓話やペローの童話をじつに巧みに脚色して、孫に語り聞かせた。ジャンヌは、その話の筋よりは耳もとで響く老人のかすれた柔らかい声が好きだった。その声は庭を流れる風の音や梢で鳴く鳥の声とまじって、ジャンヌの産毛におおわれた耳をそっとかすめていった。
 ジャンヌはよく男の子にいじめられた。いじめられると祖父の膝に乗った。性的魅力{コケットリー}とはおそらく天賦のもの、美しさとはまた別の、天から降った才能なのだろう。ジャンヌの前に出ると、少年たちは不思議な魅力のようなものを感じるのだが、彼らにはそれが自分たちのうちに眠っている性が刺激されているとは思わないから、むしろ自分たちの野性を縛ってしまうその魔力に軽い苛立ちをおぼえる。そのつもりもないのにジャンヌをいじめ、仲間はずれにしてしまう結果になる。ジャンヌもまた、自分が無意識のうちに少年たちを惹きつけようとしているとは思っていないから、少年たちの邪険な態度に傷つく。だが、彼女の肉体が成熟のきざしを見せはじめ、彼らの肉体にも変化が訪れると、関係は一変した。彼らは彼女が自分たちの性を刺激していることを意識しはじめる。彼女も自分の身ぶりのひとつひとつに少年たちを動かす力のようなものがあることを意識しはじめる。するとジャンヌは少女たちから疎まれた。彼女にとって性とは自分のかけがえのない才能、あるいは自分の存在をあかしてくれる証拠のようなものだったが、いやおうなく自分を孤独にしてしまう宿命のようなものでもあった。
 ジャンヌの祖父はじつに様々な物語を孫に語り聞かせた。そのなかでも幼いジャンヌの胸に深く刻み込まれたのは、ギリシア悲劇の大地母神キュベレーの物語だった。いつもなら、祖父の声はそよ風のようにジャンヌの耳を素通りしてしまうはずなのに、フランス語で〈シ・ベル〉(とても美しい)と発音するこの女神の話に、少女は異様な胸騒ぎをおぼえるのだった。祖父の声も心なしか上ずっているように聞こえた。
 ゼウスが天空で眠っているとき、あやしげな夢をみて精をもらした。それが大地に落ちて、キュベレーが生まれた。キュベレーは両性を備えていたが、神々に男根を切り落とされ、女性にされた。男根は土深く埋められたが、そこからアーモンドの木が生え、やがて白い花を咲かせ、実を結ぶようになった。たまたま、川の神の娘がその近くを通りかかり、アーモンドの実を懐に入れた。娘は身重になり、アッティスという男の子を産み落とした。だが、この出生に不吉なものを感じて、山に捨てた。アッティスは雌山羊に育てられ、世にも稀な美少年になった。アッティスはキュベレーに見初められ、キュベレーは深くこの少年を愛した。少年もキュベレーの愛を裏切るまいと誓い、キュベレーはアッティスが永遠に少年に留まるように祈る。だが、この美少年に言い寄るものは数知れず、いつしか樹木のニンフと恋仲になってしまう。この恋に嫉妬したキュベレーはニンフの宿る木を切り倒して殺す。アッティスは悲しみに狂乱する。刃物や石で自分の体を傷つけ、ついにはみずからの男根を切り落として果てた。
 ジャンヌの祖父は孫を膝の上に抱いて死んだ。ジャンヌは祖父が絶命していることに気づかなかった。眠ったのだと思った。いつも祖父はいくつかの物語を話し終えると、静かな寝息をたてた。その寝息がジャンヌの首筋に触れると、彼女は静かに祖父の膝から降り、膝掛けをかけてやってから家の中に入った。その日は寝息が首筋に当たらなかった。でも、寝たのだと思った。そして母親のソランジュに「おじいちゃん、寝てしまったよ」と言った。母親はいつものことだと思い、マカロンの生地を練る手を休めなかった。だが、その日にかぎって娘は執拗だった。「おじいちゃん、寝てしまったよ」と、母親が手を止めるまで繰り返した。ジャンヌが十歳のときのことだった。

(続く)

いいなと思ったら応援しよう!