モーツァルト、弦楽五重奏曲ニ長調(K.593)
最近、モーツァルトをよく聴きます。
とくに室内楽曲を好んで聴きます。
三回続けて、プルーストがらみの文を投稿しました。
若いときは、自分とは縁のない作家だと思って投げ捨てたはずのものが何十年もたってブーメランのように戻ってくる。
モーツァルトもそうかもしれません。
以下は六年前(2018年)にブログに投稿した記事に若干手を入れたものです。
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初めてモーツァルトのレコードを買ったのは、大学に入ったばかりのころだったと思う。手許に残っているレコードは「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(セレナード十三番ト長調、K. 525)、演奏しているのはスロヴァキア室内合奏団。
どうしてこの曲を選んだのか、どうしてこの合奏団の演奏するレコードを選んだのか、もう思い出すことができない。でも、わが家にあったコンソールタイプの古いステレオのターンテーブルにこのレコードを置いて、そっと針を落としたときの感動は忘れることができない。
感動と書いたけれど、じつは驚愕とか、茫然とか、そっちに近かったように思う。アレグロの冒頭が鳴り響くのを聞いているうちに、星が降ってくるような気配に襲われた。
夏の夜、窓は開け放たれていた。星を見ていたわけではない。窓を背にして、視線はステレオのほうに向いていた。でも、音は背後からやってきた。窓から星の光が飛びこんでくる・・・・・・。
こんな経験は書けば書くほど嘘っぽくなる。
いずれにせよ、これを機にモーツァルトにはまるということはなかった。むしろ敬遠するようになった。大学に入ったばかりのころといえば、まだ若かったマウリッツォ・ポリーニがショパンの練習曲全曲をアルバムに収めて、世界をあっと驚かせたころだった。ポリーニを初めて聴いたときも度肝を抜かれた。ショパンってこんなに男性的だったのか。
このショパンも敬遠するようになった。
時代のせいだろう。貴族世界の寵児だったモーツァルト、パリのサロン、社交界の華だったショパン、そんなもの、おれと関係ないじゃないか。
ねぇ、ぼく、美しいでしょ、ねぇ、聴いて聴いて、と言っているみたいで、素直に聴けなくなったのである。
大学の終わりころにはもう音楽は聴かなくなっていたと思う。クラシックもジャズもフォークもみんな鬱陶しかった。もちろん、鬱陶しかったのは自分自身だった。
小林秀雄の「モオツァルト」も読まなかった。ページを繰っても入っていけなかった。
大学を出てからしばらくして、高橋悠治の本を読んだ。たまたま彼の弾くサティを聴く機会があったからだ。サティという音楽家もユニークだが、高橋悠治という音楽家のほうがよっぽど刺激的、衝撃的だった。彼の演奏については語る資格がない。文章がすごかった。『音楽の教え』(晶文社、一九七六年初版、手許にあるのは八六年10刷)というエッセイ集のなかに〈小林秀雄「モオツァルト」読書ノート〉と題された文が収められている。
衝撃を受けたなんてものではなかった。小林秀雄がここで木っ端微塵に打ち砕かれていると思った。爽快だった。もう忘れていいのだと思った。
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敬遠して、そのまま遠くに置き去りにしてしまうものもある。逆に、もう半世紀近くも経つのに、ぶり返してくる記憶、思い出、体験もある。
数年前に、小林秀雄の伝説と化した「感想」(ベルクソン論)を読んだ。ああ、そうだったのか。感慨深いものがあった。この人は骨の髄まで翻訳者なのだと思った。なぜそう思ったのか、ここではくどくど書かない。どうせうまく書けないだろうから。この作品は、とてもシンプルな一文から始まっている。
なぜ「非常に」こたえたのか。実の母が死んだのだから、当たり前だろうと人は言うかもしれない。たしかに。でも、当たり前のことを書くのと、書かないのでは雲泥の差がある。これもまた当たり前の話ではあるけれど。
周知のように、というか、この「感想」の初段にも書かれているように、戦後最初に小林秀雄が発表した「モオツァルト」には、「母上の霊に捧ぐ」という献辞が添えられている。そしてこのエッセイには、こんなことが書かれている。あまりに有名な一節だから、引用するのも憚られるのだけれど。
「もう二十年も昔のこと」というのは、漠然とした過去ではなく、著者自身の痛切な、痛恨の一事を指している。一九二五年(大正十四年)、小林秀雄は京都から上京してきた中原中也と出会う。中也は長谷川泰子という愛人を伴っていた。
こんな「奇怪な三角関係」が長続きするわけがない。三年後、小林と泰子との同棲は破綻し、小林は大阪へと逃げる。そして、道頓堀で突如、「ト短調シンフォニイ」の主題が頭のなかで鳴り響くのである。
小林秀雄が悔いているのは、じつは中也との三角関係と泰子との同棲の無残な破綻だけではない。同棲生活から逃げて大阪に出奔したとき、それまで彼が支えてきた病弱の母も東京に置き去りにした。だから、小林秀雄の「モオツァルト」は二重の悔恨に苛まれている。そこを高橋悠治は痛烈に突く。
この一節を読んだときの衝撃は計り知れなかった。おお、と声を上げたか、思わず膝を打ったか、そんなことは忘れてしまったけれど、今これを読み返してみると、自分が以前よりは小林秀雄寄りの位置に立っていることがわかる。
彼の悔恨は深い。青春の得体の知れない情念に引きずられて母を置いて逃げ出したことへの悔恨ばかりではなく、批評家という道を選んだことにたいする悔恨、というよりは、罪悪感のような、負い目のような、ある種の心的外傷のようなもの。
彼は大阪から奈良へと移り、志賀直哉の家に足繁く出入りしたのち、東京に帰ってくる。そして翌年、「様々なる意匠」を書き、「改造」の懸賞評論に応募する。これが第二席に入り(第一席は宮本顕治の「敗北の文学」)、批評家としての出世作となる。彼は青春の深い傷と引き換えに、文芸評論家になった。
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彼がどこかの対談だか座談会だかで発言した「僕は演奏家でいいんです」という言葉。そういう「名言」が一人歩きする。批評家は演奏家ではない。翻訳家こそが演奏家であり、小林秀雄の批評の本質は翻訳にある、という思いが今は強い。
翻訳とは何か。それは分析でも解釈でも、置き換えでもない。共感と感情移入を、どのようにして原文のスタイルを維持・保存しながら表現するか。小林秀雄のドストエフスキー論もゴッホ論もベルクソン論も、彼だけの持つ特異な感情移入の力に貫かれている。
圧倒的。モーツァルトの音楽に素手で触れているような。ならば「モオツァルト」は、ここから単刀直入に切り込めばよかったではないか。なぜエッカーマンの「ゲーテとの対話」の引用から始めるというまだるっこしい迂路をたどったのか。いや、それはそれでいい。高橋悠治が徹底的にやっつけていることを、ここで蒸し返す必要はない。このモーツァルト論のハイライト・シーンはずいぶんあとに出てくる。ト短調クインテット(K. 516)の主題を楽譜そのままの形で引用したのち、こう続けているところだ。
今、この箇所を読み返すと、これはほとんど「実朝」の変奏ではないかと思えてくる。長くなるが引用する。
実朝という短命の権力者の孤独にここまで感情移入した例はほかにあるだろうか。おのれの儚い宿命の予感がこの歌に宿っているというのである。モーツァルトの音楽がそうであるように。
「モオツァルト」と「実朝」が並んで収められている古い新潮社版全集の第八巻には「翻訳」と題されたエッセイも収録されている。著者の学生時代「一枚十五銭から二十五銭位で、ずい分沢山の代訳をしたものだ」と書かれている。この代訳とフランス語の家庭教師で得た、おそらくはささやかな収入で、彼は一家を支えていた。父の豊三が死去した大正十年(一九二一)に秀雄は第一高等学校文科に入学したが「母の喀血、自分の神経衰弱、家の物質的不如意」などのために休学している(新潮日本文学辞典)。豊三は御木本真珠店に勤務したのち、日本ダイヤモンド株式会社を設立して専務取締役に就任していた人である。そして、大正十二年(一九二三)には関東大震災が起こっている。翌年、灰燼に帰した東京で二高生だった富永太郎と出会い、ボードレール、ランボーを知り、この富永太郎を介して中原中也との交際も始まるのである。
この間、小林秀雄は「蛸の自殺」「一つの脳髄」「ポンキンの笑い」(後に「女とポンキン」と改題)などの小説を書いている。これらまるで自分の「神経衰弱」から生まれたような小説を、今読む人は——研究者を除けば——ほとんどいないだろう。でも、文学史にタイトルだけは残る。初期の段階では、彼が小説を書いていたという事実も残る。でも、彼が生活のために書いていた翻訳は残らない。本人が「私の劣悪な翻訳が、誰の名前でどこで出たか今以て知らない」と書いているくらいだから。しかし、彼は翻訳という作業の魅力、魔力を知り抜いている人だ。
彼は「ゴッホの手紙」を書くにあたって、マイエル・グレエフェの「ゴッホ評伝」を英訳で読んでいる。表紙には翻訳者の名前も書いていないが、序文を読むと翻訳の苦労がよくわかる。そこにはこんなことが書かれていたというのである。
この短いエッセイは、「この本〔=ゴッホ評伝〕には、日本訳もある様である。読まないから知らないが、日本の訳者はそこまで苦心はしていまい」という皮肉で結ばれている。
まさか、こんな翻訳ノートを作る翻訳者は今時いない。いや、当時だっていなかっただろう(『ゴッホ評伝』の訳者は例外中の例外だ)。でも、翻訳者は誰しも、頭のなかではいつもこの英訳者がやっているのと類似のことを毎日繰り返しているものではないか、と翻訳者の端くれである私は思う。もし機会があったら、小林秀雄の墓前でそう伝えたい。