空海・孟子・孔子が説いた「Human Co-being」一みんなの幸せがわたしの幸せ

●京都フォーラムの創設と「幸福社会学の確立と実践」
   1989年11月3日に設立された京都フォーラムの設立者である矢崎勝彦理事長は、「幸福社会学の確立と実践」を理念として社会全体の幸福を目指した企業活動を展開した。矢﨑氏は稲森和夫氏の主宰する盛和塾の本部理事、同大阪の代表世話人でもあり、「哲学して認識を深めることをゴールにするのではなく、実践が伴わなければ単なる認識で終わってしまう。どうしても欧米人は認識論、存在論に終始する傾向が強いが、我々東洋の人間は行いと実践というところに繋がっていく。これが大事だから、東洋思想を全部もう一回、洗い直して、ここをしっかりと押さえていきたい」と強調した。
 京都フォーラムは学界と実業界が相呼応して学ぶ人間形成の場で、近隣諸国の頭脳が結集した。この産学共働の知的フォーラムは東大出版会から『公共哲学』全20巻を刊行しており、中国語版も出版されている。その「公共哲学」には、「士と商は術を異にするが志は同じである」という王陽明以来の儒家の道、「論語と算盤」(渋沢栄一)や「三方よし」(廣池千九郎)などの「道経一体」の思想が貫かれている。
 2015年に同フォーラムは、モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所内に事務局がある「地球システム・倫理学会」と大阪国際会議場で「道」をテーマに学術大会を共催しており、世界には東西という古い垣根を超えた「通底する価値」が存在することを明らかにした。
 昨年11月に東大出版会から刊行された京都フォーラム30周年記念誌『公共する経営 みんなの幸せがわたしの幸せ』(服部英二・中島隆博・矢﨑勝彦編)には、同フォーラム学術部会座長で東大東洋文化研究所の中島隆博所長や同フォーラム至誠塾塾長で元ユネスコ事務局長顧問の服部英二麗澤大学名誉教授の示唆に富んだ論文も掲載されている。

●Human Co-becomingのポイント
 1月25日付note拙稿「『人の資本主義』と経済と道徳の再融合」で紹介した中島隆博氏の「Human Co-becoming」という、「存在」とは全く異なる視点から人間を再定義した新たなコンセプトについて、「Human Co-becomingとしての人間」(前掲書、397~406頁)と題して、大要次のように解説されている。
 Human Co-becomingの第一のポイントは、人間は何らかの「道」を通ってようやく人間的になりゆくものであるということであり、第二のポイントは一人では人間的になることはできず、必ず他者と共に人間的になるほかはないということである。Coにはそのような意味が込められている。
 仏教では「仏、法、僧」の三宝を敬うというが、ここでの僧はサンガを意味している。それは4人以上の修行者が集まった集団のことで、それが意味しているのは、仏の教えにたった一人で対峙するのではなく、4人以上で一緒になって向かっていくということである。一人ではなく他者と共に、複数的な仕方で人間的になってゆくのである。
 古代中国では「性」を通じて、人間の「生の在り方」が探究され、とりわけ、その根底的な「変容」が重視された。荀子にとって「生の在り方」を変容するための最も重要な道は「礼」であった。
 ハーバード大学で中国哲学を研究しているマイケル・ピュエットは、「礼」とは感情を陶冶する規範だと考え、次のように結論付けている。

<人生の脈絡や複雑さを凌駕する倫理的、道徳的な枠組みはない。あるのはわずらわしい現実世界だけで、わたしたちはそのなかで努力して自己を磨く以外にない。…礼こそ新しい現実を想像し、長い年月をかけて新しい世界を構築する手段だ。人生は日常にはじまり、日常にとどまる。その日常のなかでのみ、真にすばらしい世界を築きはじめることができる。(『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』早川書房、2016,76頁)>

●孟子・孔子とHuman Co-becoming
   ピュエットがここで「人生の脈絡や複雑さを凌駕する倫理的、道徳的な枠組み」として批判しているのは、カントに代表される西洋近代の啓蒙主義である。神の代わりに人間を世界の中心に置き、理性によってこの世界に上から規範を与えるような考え方である。
 孟子の「性善説」は、「人間の本質は善であるから何もしなくてもよい」というものではなく、「人間の生の在り方には善への傾向があるが、それを努力して拡充しなければならない」というものである。
 惻隠の心は「仁」の端であり、羞悪の心は「義」の端であり、辞譲の心は「礼」の端であり、是非の心は「智」の端であり、この仁義礼智の「四端」があるのに、自らできないと言う者は、自分を損なう者である。感情を陶冶し「生の在り方」を深く「変容」させることは必要なのである。孟子もまた共に「主体変容」すなわちHuman Co-becomingを目指していたのである。
 孔子は「礼」を「仁」という新しい人間の在り方に繋がるものとして考え、感情を陶冶する規範である「礼」を身に付けることで、感情を豊かにし、それを他人にまで及ぼすことが「仁」であり、人間的であるということだと説いた。一人ではなく、他人と共に学んで人間的になっていくのである。

●空海が説いたHuman Co-becoming
 ところで、米オハイオ州立大学のトマス・カスリス名誉教授は空海について次のように述べている。

<空海の思いとは、他人を知るとは、その人の世界の内側にいるということ、その人と触れ合い重なり合うということだ。そうすると、他人があなた自身の一部となる。他者を対象化するよりむしろ、他者と何かを分かち合うことなのだ。空海が大学を離れて、知ることの探求に向かった時、空海はこの世界に親密な仕方で関与したかったのだ。地質学者ではなく、陶芸家が土のことを知るように、リアリティのすべてを知りたかったのである。中国から帰国するまでには、空海は二つの種類の知の違いを直に経験した。そしてそれを、顕教と密教のコントラストによって説明したのである。>

 空海が望んだのは、すべてを知ることであり、対象と距離をとった離れた知ではなく、関与する知、すなわち何か内奥のものを分かち合うような、親密な知が必要だと考えたのである。それこそが、空海にとっての密教であった。
 そこで、中島隆博氏はこの論文を次のように締めくくっている。

<今のわたしたちにとって大事なことは、空海であるかのように生きることだ。大事なことは、「他人があなた自身の生の一部となる」ような関与する知を空海とともに身につけることである。そして、それこそがHuman Co-becomingが告げていることなのである。>



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