島崎藤村の函館
1904年(明治37)
島崎藤村は、日本とロシアが開戦した
日露戦争のさなか
ロシアの軍艦が出没する
そうぜんたる津軽海峡をわたり
函館の旧桟橋にたどり着いた
港ちかくの妻・冬子の実家をたずね
小説『破戒』の自費出版費用を願った
「要るといふ時に電報を一つ打ってよこせ
金は直ぐ送ろう」
(島崎藤村『突貫』)
網の問屋を切りまわしていた義父・秦慶治は
二つ返事で金四百円を用立てたのだ
ちなみに今では300万円ほどの大金を手にして
妻の実家で1週間ほどすごしている
こうして、藤村が34歳の誕生日をむかえた
その日に
7年の歳月をかさねた長編『破戒』は出版された
夏目漱石は「明治の小説としては
後世に伝うべき名編」と
激賞し出世作となった
藤村と秦の三女冬子は
東京の明治女学校の先生と教え子の間柄
冬子は
ロマンあふれる藤村の詩にひきつけられ
結婚したのだ
藤村は小諸義塾の先生を辞め
『破戒』の執筆にかかりきりで
収入はほとんど無い
小説が世にでた年に2歳から5歳の
娘三人をあいついで亡くした
栄養不良だったという
藤村と冬子は大きなショックをうけた
藤村自身も『破戒』は
家族の犠牲のうえに成りたったと
心中をもらしている
冬子は、その後、男の子と女の子を生むが
末娘を生んだ産後の肥立ちがわるく世を去った
冬子との結婚生活はわずか11年であった
*2023.10 北海道新聞(函館版)に投稿したコラムを編集