西野鷹志
天然の良港をいだく函館。 高田屋嘉兵衛の千石船が出入りし、ペリー提督が水と薪をもとめて開港をせまり、戊辰戦争では榎本武揚の艦隊が官軍と交戦するなど歴史を刻んできた。 開港160年ほど、カメラ片手に港町の移り変わりをみつめていく。
ネットで遊んでいたら、ロマネ・コンティ1億2千万で売り出されていた。その高額に腰を抜かした。さらに、1945年生れでなんと71年もの。これで腰がくだけた。
わがカメラ事始めは、30年ほどまえのイタリアの旅。出発まぎわに「写真の撮り方入門」を手にした泥縄そのものであった。 そんな初心者が、プロ仕様のピントも露出も手動のニコンF3で撮って、ピンボケだらけのネガの山を築いた。
突風で駅舎がぐらっと揺れ、それまでのぽかぽか陽気が一転、気温が急降下した。ぶるっと体が犬みたいに震えた。根室ちかくの花咲駅。最果ての無人駅であった。
大森浜の浜辺を散策して『一握の砂』を詠んだ 東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
風も狂ひ火も狂ひ 「明治40年6月11日 石川一、 函館區彌生尋常小学校代用教員拝命 月俸拾貮圓」 明治15年の開校当初から綴られ古びた 「彌生小学校沿革誌」の一ページに記された 石川啄木の足跡である。 いまも校長室の耐火金庫に大切に保管されている。 天才詩人と名が出始めた啄木をあたたかく迎えいれた 文学仲間のツテで、薄給の弥生小学校代用教員となる。 が、「烈しい山背の風で一本のマッチから起った火を煽りに煽って……雲も狂ひ風も狂ひ火も狂ひ人も狂ひ巡査も狂ひ犬も狂ひ
籠城戦で敗れ 会津藩はわずか三万石に減らされて 青森県下北半島に国替えとなった 会津は全藩が流罪になったと 司馬遼太郎は 『街道をゆくー北のまほろば』で語っている 山川さき8歳のときに 会津戦争は起こった 「官軍、城下侵入近し」の早鐘が 打ち鳴らされるなか 山川家の女性たちも鶴ヶ城へ走った 激しい砲撃のなか 負傷者の手当、炊き出し 弾薬づくり 消火に走りまわり 8才のさき(のちに大山捨松)も 手助けした が、ひと月にわたった壮絶な籠城戦は 会津の降伏で終わった 1
少年ランボーの詩に惹かれた 詩人ヴェルレーヌは新婚の妻を捨て 二人は倫敦、巴里をさまよい 互いに惹かれ 反発するも詩作 ランボー 『地獄の季節』を出版 詩を棄て砂漠の武器商人で 37歳を終えた ヴェルレーヌ 拳銃の暴発で収監 だが大詩人となり 52年を生きた
京都でいちばん古い 明治初年創業のおでん「蛸長」 カウンターの銅鍋から だし汁の湯気が 立ちあがっている 九条ねぎの刻みを添えた生湯葉 とろりと柔らかい 店の名のとおり 明石産の蛸は絶品 わが輩の固くなった頭も 名物の蛸を食すれば柔らかくなる 京の旅は蛸長から
笛と太鼓の音が 箱館の街なかにひびきわたった 170年まえの嘉永7年 1854年のことであった ペリーが箱館に来航したとき 水兵2人が、この異郷の地で病死した 従軍牧師を先頭に葬列が組まれ 剣をおびた士官が左右をあゆむ それにつき従い 兵たちが横笛を吹き ドラムをたたき 黒い布でおおわれた棺をかつぎ おごそかに行進 土地の群衆も頭を垂れてつきそう このときひびいたのが ヘンデルの葬送行進曲であった 葬られたのは、函館山のふもとの高台 これが外国人墓地の始まり
のどかにガタンゴトンと乗客をのせた ハイカラ號が 基坂下をかけぬけていった 明治時代の路面電車を復元した 「箱館ハイカラ號」 1910(明治43)年製 千葉・成田で運行していたが 1918年に函館にやってきた 一時は除雪に使われていたが レトロに復元され 30年ほどまえに客車となった 赤と白のクラシックなデザインが 人気だ 昔の写真が手もとにある 幕末、開港とともに開いた運上所を 明治になって税関と改めた その初代税関のまえを 移動する小型の鉄道 馬が曳いている
紫式部 高慢なイジワル才女 清少納言 ガク振りかざす軽薄派 和泉式部 王朝のプレイガール 北条政子 鎌倉のやきもち夫人 淀君 豊臣家の猛母 北政所 日本一の‶オカミサン″ 歴史小説家・永井路子が 歴史上の女傑・ヒーローを 快刀乱麻する痛快なる面白さ
新しいフィルムカメラPENTAX17(イチナナ)が新発売された 注文が殺到し受注停止とか デジカメの世にアナグロとは!? PENTAX17に刺激され むかし愛用したライカLeicaMPで撮影しようと 先ずフイルム装填でつまずいた フイルム先端のベロが上手く入らない YouTubeを見て装填の第一関門通過 さらにピント合わせ=レンジファインダーの二重像合致 歳とって視力が弱くなりなかなかピントが合わない それやこれや とにかく街なかで夕方から夜にかけてスナップ 36枚撮
赤い靴(くつ) はいてた 女の子 異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった 横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って 異人さんに つれられて 行っちゃった 今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろう (抜粋) 作詞 野口雨情 大正11年 明治38年 わずか3歳のきみは、母かよと別れ 異人さんにつれられ船にのり函館をはなれた 旧桟橋(東浜桟橋)ちかくに 赤い靴の少女像「きみちゃんの像」がある 母
名刺 18世紀初め ヨーロッパで生まれた 枚数不足で使用不可のトランプの余白に 名前と用件を書き 不在中の留守宅に置いてきた そのトランプは💓のA これは恋文!!! 洒落ていると流行ったのが 名刺の始まり で、今も名刺のサイズ トランプと同じ 半藤流・天衣無縫のコラム
1904年(明治37) 島崎藤村は、日本とロシアが開戦した 日露戦争のさなか ロシアの軍艦が出没する そうぜんたる津軽海峡をわたり 函館の旧桟橋にたどり着いた 港ちかくの妻・冬子の実家をたずね 小説『破戒』の自費出版費用を願った 「要るといふ時に電報を一つ打ってよこせ 金は直ぐ送ろう」 (島崎藤村『突貫』) 網の問屋を切りまわしていた義父・秦慶治は 二つ返事で金四百円を用立てたのだ ちなみに今では300万円ほどの大金を手にして 妻の実家で1週間ほどすごしている こう
毎朝、夫婦でそばを打つ 「蕎麦蔵」 会津でそば打ち修業 その会津産のそば粉を使った 手打十割蕎麦 十割なのに なめらかな艶とこしがあって 美味い 函館のそば屋で一番人気 30枚限定 直ぐ売り切れる 僕のお気に入りは、 野菜天蕎麦 つきたて餅のあんころ これで大満足!
幕末、黒船が浦賀沖に突如現われて右往左往する 幕府と江戸の町を皮肉った有名な狂歌がある 「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」 上喜撰(じょうきせん)とは 宇治の銘茶で蒸気船(黒船)にひっかけ 四杯とは 黒船四隻でお茶を飲みすぎると夜も眠れない、と この黒船に日本人として真っ先に乗りこんだのが 浦賀奉行の役人 中島三郎助 米に幕府高官としか面会しないといわれ とっさに「浦賀の副奉行」と偽った 応接をかさね艦内の大砲などの装備にも 目をこらし米から警戒さ
1995 プラハは塔が多く 「百塔の街」と呼ばれる ロマネスクやバロックの 建築が連なり 旧市街には 中世の風情がただよう 街の角々にビヤホール その数600 プラハは「泡の街」 『聖トマス修道院』 『牛小屋』 『金の虎』 店名も個性的 カフカを生んだ この街は奥深い
みやびな平安王朝 一皮むけば権力欲と色好みの世界 そのなかを名門貴族の五男坊の 藤原道長は 幾度も失意と喜びを味わうが 政敵が疫病などで次々と消え 王朝の頂点たる摂政となり 「この世をばわが世とぞ思ふ・・・」と詠った 平安王朝絵巻の渾身の長編小説 今の世の政治世界に通じる
横なぐりの雨風が荒れ狂う 帽子のうえにフードをかぶる パンツまでぬれはじめた ヨーロッパの西の端アイルランド本島の ゴールウエイから さらに西の孤島アラン 夫と5人の息子をつぎつぎ荒海にうばわれ 最後にのこった息子も風浪にのまれ 「みんなこの世を去ってしまった。 だから海はこれ以上、 私にどうすることも出来やしない……」 と年老いた母は十字を切った シングの戯曲『海へ騎りゆく人々』の 忘れがたい科白だ 石ころと岩だけの不毛の島は 海に生活の糧をもとめた 木組みに布をはり