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⑤【伊藤貫の真剣な雑談】「プラトン哲学と国家の独立」文字起こし


で、プラトンに戻りますけれども、プラトンとカントにはちょっと共通点がありまして。2人とも、目の前の現実は、もちろん目の前の現実だけれども、目の前の現実だけが現実ではないと。人間にはより根源的な現実があるという風に分けているんですね。

プラトンは、目の前の現実っていうのは洞窟の中に閉じ込められてるプリズナー(囚人)が、洞窟の壁に映っている影を見て、その影のことを指さしてこれが現実だと叫んでいるようなものであると。

要するに洞窟の中に焚き火を焚いて、そうすると、ゆらゆらした影が洞窟の壁に移りますよね。そういうゆらゆら動く影を見て、人間たちはこれが現実だと叫んでいるようなもので、本当の現実ではないと。

有名な「洞窟の比喩」(プラトン対話集:国家)

カントはそれを別の言い方でフェノメノンとヌメノンという風に分けまして、目の前の我々が相手にしているような一般的な現実はフェノメノンであると。で、その目の前のフェノメノンを生じさせている根源的な現実。彼はそれを、日本語の哲学書では「物自体の世界」という風に書いてますけれども、とにかく最も根源的な目の前の現実のべースにある、一番大切な、全く変わらない現実なんですね。彼はそれをヌメノンと呼んでたわけです。

要するに目の前の現実以外にももっと大切な現実があるということを主張してたという意味において、プラトン哲学とカント哲学っていうのは似てるところがあるんですね。

2人とも目の前の現実を超えたところに親善美の価値観とか、それから神や仏のごとき、ディヴィニティ、ディバイン、要するに神聖なるものというものが存在すると。

ですから、プラトンとカントに共通するのは、目の前の現実っていうのは我々人間が毎日相手にしているような現実。新聞とかテレビのニュースに載るような現実。政治家とかジャーナリストが騒いでいる現実。
そういう 政治家とかジャーナリストが騒ぐような 現実っていうのは吹けば飛ぶようないい加減なものに過ぎないと。そんなものはいくらでも変わると。万物は流転すると。

ヘラクレトスっていうソクラテスの前に生まれた哲学者が万物は流転だと。全ては変わるから確かなものなんか何にもないと。彼らはもちろん目の前の フェノメノンのことそういう風に言ったわけですね。

プラトンとカントに共通するのは、目の前の現実を超えたところに、「もの」自体の世界、もしくは根源的な世界と。プラトンはその世界のことをイデアの世界とかフォーム、形式ですね、フォームの世界と言って、要するに抽象的な、論理的な世界があるんだという風に主張しまして、2人とも目の前の現実だけを分析することには賛成しなかったわけですね。

で、それが原因で2人とも、根源的な現実には神のごとき、もしくは神聖なる価値が存在すると。だから道徳規範とか価値規範っていうのは、全てその場の状況によって変わるような、エフェメラル、吹けば飛ぶようなものでは なくて、永遠性と普遍性を持つ価値判断っていうものが存在することは可能であると、もしくは必ず存在するのだと、そういう風にプラトンとカントは言ってたわけですね。それが原因で2人とも神の存在というものを認めてたわけです。

ところが、神というと普通は宗教だと思うでしょう?ところが、プラトンもカントも宗教は持ってないんですよ。彼らは宗教的な神っていうのには賛成しないんですね。

哲学的にずっと考え抜いてみると、目の前の現実をこういったところにもっと深い根源的な現実っていうのがあるはずで、人間の価値判断力、本当の価値判断力っていうのは、その根源的な現実、もしくはヌメノンから来るはずであると、来てるのだと、彼らはそういう風に言いまして、そこに神聖なる規範、もしくは究極の真善美の価値というものも存在するんだと。

彼ら2人は非宗教的な意味で神の存在というのを肯定してたわけです。そういう風な神の存在、非宗教的な神の存在っていうのを肯定してたのはソクラテスもそうですし、アリストテレスもそうだし、それから皆さんご存知のデカルトもそうなんですね。あとスピノザもそうだし、それから20世紀初頭の有名な哲学者で数学者のホワイトヘッド。それから誰でも知ってる物理学者のアインシュタインも根源的意味における神の存在というのを信じたわけですね。

だからデカルトとかアインシュタインっていうのは自然科学者ですから、そういう数学、自然科学に非常に優れた人たちも神の存在というものを非宗教的な意味で肯定してたわけです。

ということはどういうことかというと、崇高性を持つノビリティ、もしくは スプレマシー、というかシュープリームネス。要するに、非常に崇高なる価値規範っていうのは存在するのであって、我々人間はそれを目指して生きていくべきだと。

ただし、目の前の現実にはそれは存在しないわけですね。だからカントもプラトンもデカルトもスピノザもそれはきちんと分けて議論してるわけです。

で、そういう風な崇高性の存在ともしくは神のごとき価値の存在というものを認めた上で、プラトンは、人間はそのような崇高性を目指さなければいけないんだけれども、人間の性格には3つの欲望、もしくは3つの欲求によって動かされていると。

それは何かっていうと、彼に言わせれば、最も良いレベルでの欲求、もしくは欲望っていうのは、知性や知恵やそれから理性に対する欲求であると。

要するにインテレクチュアル(知的)な欲求ですね。それから2つ目が名誉とか勝利。それから人間のプライドというものを重んじる欲求ですね。
3つ目の欲求は何かっていうと、お金、それから食欲。美味しいもの食べたいとか、それから、女性もしくは男性。要するに性関係における欲望ですね。それから官能的な快感ね、プレジャー。 要するに快楽に対する欲望。それから、贅沢したいとか、見せびらかしたいとか、お金持ちであるとか社会的地位を見せびらかしたいとかね。そういう欲望ですね。これを彼は3番目の欲望と呼んでて、人間っていうのは必ずこの3つの欲求もしくは3つの欲望によって動かされていると。

で、1番目の、知恵とか理性とか知性に対する欲求が一番人間にとって好ましいものであって、2番目の、何でも いいから人に勝ちたいと、それから名誉を得たいと、名声を得たいと、自分のプライドを満足させたいというのは 彼は2番目の欲求であると。3番目の、お金持ちになりたいとか美味しいものいっぱい食べたいとか贅沢したいとか、それから女にモテたいとか男にモテたいとか、そういうのはかなり生物的、もしくは動物的な欲求なわけです。

1番目の欲求を優先する人たちを彼は鉄人タイプと。フィロソファータイプと。哲学者っていうよりも「哲人」ですね。悟りを追求するタイプですね。

2番目の人たちを彼は軍人タイプ。もしくは戦士。ウォーリアー。ファイタータイプ。 軍人タイプ。闘士タイプの人。

3番目の人たちを彼は商人タイプ。商売人タイプ。もしくは快楽主義者タイプの人と呼んだわけです。

この3つの生き方のどれを重んじるかによって彼は政治体制が変わってくると。これがプラトンの有名な「国家」っていう本があるんですけれども、そこで彼が述べているのは、

1番目の哲学的、もしくは鉄人的な欲求を重んじるのが鉄人統治と。

2番目の名誉とか勝利を望む、もしくはプライドの充足を重視するのを名誉体制、もしくは軍人体制ですね。 もしくはあの江戸時代の武士のあの階級ですよ。要するに武士のメンツが立たないとかね。武士の誇りにかけてなんたらかんたらとかね。(笑)そういう、武人統治ですね。

3番目が金儲けを欲求する、お金に対する要求を一番重視するのが富裕者統治。で、プラトンはこれをプルートクラシーと。(金持ちによる政治)と呼んだり、オリガーキー(寡頭体制)と呼んだりするんですけれども、要するに金儲けする人が一番威張ってる社会ですね。

4番目が民主体制なんですね。で、民主体制っていうのは一人一人の欲望、欲求には何らの上下もないと。全ての人の要求はもしくは欲求は全て平等に扱われるべきであると。だから人間の趣味とか、それから余暇の使い方とかお金の使い方全てに上下貴賤はないと。例えば、品のない映画だとかテレビ番組でも、どんなに品のない喜劇俳優であっても、それが大衆に受けてるんだったら、みんなに受けることを言ったやつが勝ちだと。 要するに数は力なりと。民主主義ってのはそうでしょう?

5番目が独裁政治、もしくは専制政治。で、彼はこの5つの政治体制を「国家」の中で議論していて、もう一度言いますと、 哲人統治。武人統治もしくは軍人統治。富裕者統治。民主主義。専制政治。

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