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③【伊藤貫の真剣な雑談】「プラトン哲学と国家の独立」文字起こし


で、これからヨーロッパのことに移るんですけれども、僕はヨーロッパ文明が好きなんですけれども、過去200年間のヨーロッパ文明は、はっきり言ってダメになってきたなと。で、なぜかと言いますと、ヨーロッパ文明の基盤というのは2つありまして、1つは紀元前4~5世紀に発生した、特にソクラテスとプラトンとアリストテレスが始めたギリシャ哲学ですね。

ギリシャの科学精神で一般的にはソクラテスとプラトンが人類の哲学の基盤を作り、アリストテレスが人類の自然科学と世界社会科学の基礎を作ったと。だから我々が使っている、普段考えている科学的な思考力とか哲学的な思考力っていうのは紀元前4~5世紀にこの3人が始めたものがヨーロッパ文明の基礎になってきてるわけです。

それから約400年経ってからイエスキリストが出て、 新約聖書に載っているようなお説教をして、キリスト教文明というのを作ったわけですね。

だからヨーロッパ文明っていうのはその源流がギリシャ哲学とかギリシャの科学、それからローマ帝国に広がったキリスト教文明というものから来てるわけです。で、それが変わったのが18世紀の後半なんです。

18世紀の後半からギリシャ哲学とキリスト教文明、キリスト教の教義自体を批判する啓蒙思想というのが出てきて、それから最近2500年間はだいたいこの啓蒙思想が正しかったという風にヨーロッパ文明、それからアメリカ文明も動いてきたわけです。

だけど問題なのは、ギリシャ哲学にしてもそれからキリスト教文明にしても人間よりももっと大切な価値があると。それを彼らは トランセンデンタルバリューって呼ぶんですけれども、超越的な価値ですね、それは何かっていう と、究極の真・善・美。アルティメットですね。それから、神聖な価値ですね。英語で言うとディバインバリュー。もしくはディヴィニティー、神聖なるものと。

普通の人はそれを神と呼んでるんですけれどもね。で、とにかくギリシャ哲学にしても、キリスト教にしても、人間よりももっと大切な価値というものがあって、それに従って生きていくのが我々の人間の務めであるという風に思っていたんですけれども、18世紀後半以降の啓蒙思想というのは、良くく言えばエンライトメントと。要するに、光をね、人類に光を与えるという ことになってるんですけれども、良くも悪くも人間中心主義なんですね。 英語で言うとヒューマンセントリックと。

で、もっと言うと人間こそが世界の主人公であり、世界で一番偉いのは人間であると。人間の欲望、それから人間の要求する権利。これが我々にとって一番貴重なものであると。人間の欲望と人間の価値判断と人間の主張する権利ですね、これを尊重するのがいい生き方であると。

そうすると、価値判断の中心がギリシャ哲学とかキリスト教文明ではディヴィニティと神のごときもの、もしくはノーブルマインド。要するに高貴な人間の都合とか人間の好き嫌いよりももっとそれをトランセンド、超越したノビリティと。高貴なるものというものが、もしくは崇高なものというものがあるはずだという風な思考パターンから、人間様が一番偉いんだと。で、人間様こそ世界の主人公であり、人間様が、良いと思うことを政府はやればいいと。で、そういう人間中心主義に変わってきたわけです。

人間中心主義というのは一見素晴らしいように思えるわけですよ。ところがね…. 少なくともソクラテスなりプラトンなりアリストテレスなり、それからジーザスクライストは、人間っていうのはしばしば愚かなことをやるから自制しなければいけないと。セルフレストレイント(自粛)と。

自制心を発揮して、自分の欲望と自分の権利というものだけを主張して、それを通そうとすると、単にいざこざが増えるだけではなくて、社会全体もきちんと運営できなくなると。それから社会の価値規範自体も崩れていくということをプラトンにしてもアリストテレスにしても指摘してたんですけれども、そういうのを無くしてしまったわけですね。

それを真っ先に先頭に立ってやったのが、ディドロとかダランベール、それからルソー、特にルソーなんかがそういうことをやって、自然に帰れと。自然の人間は素晴らしいんだと。原始状態の人間が一番素晴らしかったから、社会の伝統とか因習とかしきたりなんかは全部すっ飛ばして、とにかく人間 の欲望と人間の夢を優先させればいいと。

そこら辺から人間は非常に実益というか自分にとって得になるもの、自分にとって役に立つもの。それから自分の都合を優先させればいいという態度がかなり露骨になってきたわけですね。

そういう一見素晴らしいように聞こえる18世紀の啓蒙主義を経た後の人間が何をやりだしたかっていうと、19世紀になってからの植民地の獲得競争と、それから帝国主義と、それから植民地の非白人に対する露骨な搾取ですね。でこれはもう人種主義です、人種差別主義。

それから、自分たちの民族は一番偉い民族なんだから、自分たち民族の利益をどんどん優先させればいいと。弱い民族は土足で踏みにじっても構わないという民族主義と国家主義と。

そうすると、最初は啓蒙主義で人間の欲望と人間の権利を前面に押し出してそれを尊重するのがいいのだという考えを押し進めた時は、彼らは理想主義的だったんですけれども、それを19世紀になって実践してみたら世界中で植民地獲得競争をやる帝国主義闘争になってしまったと。

それで、よく言われるように、マイトイズライトと。力は正義なりと。 力の強い奴が力の弱い国を踏み踏みにじってどこが悪い?という、そういう国際政治になってきたわけですね。

それが19世紀の帝国主義になって、20世紀の第一次世界大戦、第二次世界大戦につながっていったわけです。

で、我々日本人は、最初はそれに順応して勝者になったような気持ちになったんですけれども、1945年に叩きのめされて、それからはもう二度と独立できなくなったわけです。

これも過去200年間の政治思想史から見ると、それから外交史から見ると、こういうことが起きたのも最終的にはやっぱり西洋人の価値判断力と政治思想がどんどん変わってきたからだと。

僕は少なくとも過去250年間の欧米人の価値規範の変化っていうものをあまり好意的というか肯定的には見てないわけです。で、これはちょっと皆さんに受け入れていただけないかもしれないんですけれども、保守主義は、以前も申し上げましたけれども、何を保守するのか?と。

「What do you want to conserve ? 」保守主義というのはコンサバティズムでしょう?このサーブっていうのは保存するとか温存すると。そうすると、あなたは 一体何を保守したいんですか?ということになるわけですね。

で、現代の、少なくとも アメリカ人とか日本人の多くは、国益を擁護したいと。もしくは国家のパワーですね。国家の力を温存したいと。だからナショナリズムか、もしくは経済利益、軍事利益を保守することというのが保守主義であると。で、それに反対する左翼は嫌いだと。

ところが、保守主義にはそういう国益、コンサバティズム、もしくはナショナリズムコンサバティブと。ナショナリズムを表に出すコンサバティズムとは別に、クラシカルコンサバティズムというのというものがあるんですね。それは何かというと、古典的なバリュー、価値、価値観。それから古典的な文化、様式をなるべく温存したいと。

なぜならば、何百年も続いてきた古典的な文化というのはそれなりに何百年も続いてきたんですから、洗練されたものであって、良いものだけは残ってるんだから、そういうクラシカルなカルチャー、クラシカルなバリューというものをそう簡単に壊すと人間は逆に野蛮な状態に戻ってしまうと。

だからそういう人間の野蛮性を避けるためにクラシカルなバリュー、クラシカルなカルチャーを大切にしようっていうクラシカルコンサバティブの立場があるんですね。

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