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①【伊藤貫の真剣な雑談】「プラトン哲学と国家の独立」文字起こし
伊藤貫氏、日本の評論家、国際政治アナリスト、米国金融アナリスト、政治思想家。アメリカ・ワシントンD.C.在住。東京大学経済学部卒業。
引用元動画 : https://www.youtube.com/watch?v=Dvx8a-kLDKg
今日は、普段から喋ってることよりは、相当抽象的なことを喋りますので、半分、大学の講義みたいに、政治思想史とか、哲学史の講義みたいになるんですけれども、以前からこのことを喋るのは重要だと思っていたんですね。
哲学史とか政治史のことに関して喋りますと、皆さんに中々理解していただけない….と。理解していただけないっていうよりも、もう、あの、みんな嫌がる人が多いんですね。(笑)
めんどくさいこと言わないで….面倒くさい理屈を言わないでほしい。
という反応を示される方が多くて。
僕のYouTubeの講演っていうのは10~20万人くらい見ていただけるんですけれども、今回の講演は、多分、ほんの数万人?もしかしたら数千人ぐらいしか見ていただけないかもしれないと思うんです。
ワシントンから日本の外交政策と国内政治を観察していますと、ものすごい表面的な議論を繰り返してるんですね。
で、このまま表面的な議論をいくら繰り返しても、きちんとした、論理的に整合性があり、一貫性のある、政治、外交、国防はできないんではないかと思うんです。
なぜかと考えてみると、やっぱり哲学の点からこの問題を議論しないと、なぜ戦後の日本人が、もしくは大正デモクラシー以来ですね、ですから過去100年間か、110年間の日本が、表面的な議論ばかりして、長期的な展望と、きちんとした明瞭な価値判断に基づいた国内政治と外交政策を実行することに失敗してきたのかということが、なかなか説明できないと思うんですね。
ですから、今日の議論というのは、抽象的な、哲学とか宗教のレベルにまで踏み込んだ議論をします。
で、面白いと思われる方もおられると思いますけれども、つまんない屁理屈を喋ってるなと思われる方もおられると思いますが、最初にこの講演の前半で、過去2500年間の人類の価値判断がどういう風に変わってきたか?
特に、最近200年もしくは最近250年間の欧米人の価値観が、価値判断力が、どういう風に変わってきたのか。で、そのために日本人がどういう風に影響を受けたか。もっとはっきり言うと、価値判断がどんどん変わってきた。もしくは、価値判断力が衰退してきた欧米人に、日本人はかなりもてあそばれてきたところがあるんですね。
それは、もちろん19世紀の中頃まで日本人は外国人と直接議論するような場に立たされなかったわけで。そうすると、国を開いた途端に価値判断の能力がかなり乱れてきたヨーロッパ人、アメリカ人と付き合わなきゃいけなくなった。これは僕は、最近150年間の日本の悲劇だと思うんですね。
というのは、18世紀までの欧米人というのは、そう簡単にポンポン意見を変えたり、自分たちの価値判断力を、判断の基準を、変えたりする人たちではなかったんですけれども、最近200年ぐらいから欧米人が落ち着きを失って、その場その場で自分たちに都合のいいことを言い出して、それでアグレッシブに自分たちの価値判断を非白人諸国に押し付けてくるということを繰り返してきたわけですね。
日本人はそういう西洋文明、西洋諸国に押しまくられて、それに一生懸命対応して、キャッチアップしようとして、時には猿真似して、失敗したりして。
で、現在もそうなわけです。現在の日本政府も、例えばアメリカがウクライナで不必要なクーデターを起こして、それでウクライナという国をアメリカの純軍事同盟化して、ロシアがそれにたまりかねて、ウクライナの東部に侵入していったと。で、それを理由にアメリカは長期の対露戦争を戦って、ロシアを潰そうとしていると。
そのやり方に日本政府は、もう日本政府だけではなくて、マスコミの人はほとんど全員が引きずられた議論をするだけなんですね。要するにこれは最近150年間ずっと、欧米諸国にやることにずっと鼻づらを引きずり回されるようにくっついていった日本の悲劇がずっと繰り返されているわけです。
そのことを、哲学史とか政治思想史の面から分析すると、どういう風になるかということを今日は喋りたいと思います。
で、前半が最近2500年間に何が起きてきたか。哲学史とか政治同士の面からどういう風に変わってきたか。で、後半でプラトンの国家思想を説明して、それで、ソクラテスやプラトンによれば、国家の価値判断の独立と、それからもちろん国防政策の独立というのがどれぐらい大切なものかということを説明します。ですから後半部は プラトンの解説で、前半部は思想史の解説になります。
まず、いつも言ってることなんですけれども、ものを考えるには3つの段階があります。
3つのレベルで考えないとうまく整合性がとれない。要するに、きちんとした 安定性のある思考が成り立たない。その3つのレベルの思考というのは、
一番上に、「哲学や宗教レベル」の価値判断があって、
その下に政治学、それから国際政治学。それから政治思想史。それから経済学、軍事学の「パラダイムレベル」パラダイムというのは”学派”ですね。要するにケインズとかマルクスとかオーストリア学科とか。いろんな学派別のパラダイムがありまして、どのパラダイムを使用するかで議論が変わってくるわけです。2つ目がパラダイムレベルの議論。
3つ目の段階は誰にでもわかりやすい「ポリシーレベル」の議論ですね。目の前に起きたある問題を解決するにはどのポリシーを採用すれば最もコストが安くて最も成功する率が高いかという、目の前の問題に対処するポリシーレベルの問題ですね。
ですから、ものを考えるには「3つのP」フィロソフィカル(philosophical)なレベルの思考。パラダイムレベル(paradigm)の思考。それから3番目のポリシーレベル(policy)の思考があるわけです。
今の日本が一番困っているのは、一番上の哲学や宗教のレベルでの、ものの考え方をどうするかということだと思うんですね。
これは日本人にとって一番苦手なレベルの議論なんです。というのは、日本人はあんまり宗教に興味を持たなかったですよね。もちろん仏教には素晴らしい伝統がありますけれども。
でも、明治維新はいわゆる、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)というのをやって、仏教的な思考パターンっていうのをどんどん弱体化させていったわけですね。ごく一部の人がキリスト教となりましたけれども、彼らの影響力はほとんどなかったと。
では哲学はどうかっていうと、哲学も明治維新以降、 慌てて輸入してみたんですけれども、これもまたほとんどが、はっきり言って表面的な猿真似をしたに過ぎなかったということがありまして。日本人に根付いたものにはならなかったわけです。
ですから、ヘーゲルが流行ればみんなヘーゲルの真似をするし、カントが流行ればみんなカントの真似すると。それからショーペンハウアーが流行ればショーペンハウアーの真似をすると。で、20世紀になると現象学とか、論理実証主義とか。言語分析哲学とか実存主義とか。ポストモダンが流行るとみんなそれを真似すると。
だけども、日本人の、日本の国民のほとんどにはこういう大学の哲学科の教授たちが、「西洋のこれが一番新しいヨーロッパの流行ってる哲学です。」という風に真似してみせても、ほとんど何の影響も受けなかったわけですよね。
また、問題なのは、日本の先生が西洋哲学を紹介するとものすごく奇妙な日本語になるんですよ。日本の大学の先生が書いたヨーロッパ哲学の解説書を読んでもほとんど意味が通じないような文章を平気で書いているわけですよね。
で、しかも、ヨーロッパの哲学の流行が変わると、どんどん変わっていくと。そうすると結局、ほとんどの人たちは日本の哲学者なんていうのはヨーロッパの哲学の流行を借りてきてるだけで、真面目に学ぼうとしても大切なものは何も得られないと。これは事実だったと思うんですね。事実だと思うんですけれども、やっぱり人間にとって哲学と宗教っていうのは、実は一番大切なものなんですね。
で、なぜ一番大切かっていうと、人間が生きていくのに、僕は「2つのM」と呼んでいるんですけれども、2つのMというのは何かっていうと、ミーニングとミッション(meaning , mission)
要するに、人間には、何で自分は生きてるんだろう。 自分の生きてる意味は何だろう、とね。
生きてる意味がわかんなきゃ生きてても面白くないわけで。もしくは刹那的にね、その場その場で対応していくだけで、頭の中は混乱するし、気分も情緒的にも混乱するし、落ち着いた判断っていうのができないわけですね。
もう一つは、人間っていうのは、生まれて年を取って、子供を作って年をとって、死ぬと。そうすると単なる動物と同じだと。そうであるならば、自分が生きてる間に何らかの意味、もしくは意義を追求して実現しようという義務感なり使命感なり、それから任務というかね、やらなければいけないことというものが規定できないわけですね。
ですから2つのMというのは、ミーニングオブライフ、 生きる意味。人生の意味。それからミッションオブライフ、人生の任務、使命感ですね。
このミーニングオブライフとミッションオブライフというものを人間に与えてくれるのは、実は、哲学もしくは宗教だけなんですね。