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ゲーム制作のための文学(17) 小説の誕生、宗教的人間から経済的人間へ

東京流通センターで開催される文学フリマ東京に向けて、『ゲーム制作のための文学』を制作しています。

流通センターは東京にあり、モノレールで行けます。

当日、コロナアプリである「COCOA」の確認があると思いますので、文学フリマ東京に来る方はインストールをお願いします。おそらく、今年も混雑すると思われますので。

さて、『ゲーム制作のための文学』の文学者シリーズの最終章、物語の時代が終わり小説の時代が始まった目的地に到着しました。

小説はどこから始まったのか、という問いに関しては、『ゲーム制作のための文学』ではデフォーとスウィフトの二人から始まった、という説を採用しています。

この説を採用しているのは、リアリズム小説がデフォーの『ロビンソン・クルーソー』、リチャードソンの『パミラ』、フィールディングの『トム・ジョウンズ』と発展してきて、十九世紀初頭のジェイン・オースティンの恋愛小説で今の姿になってきたという流れを自然だと考えるからです。

なと、有名なフランスのバルザックやスタンダールは、オースティンよりも後の作家で小説はイギリスがフランスに先行していたと言えます。


また、異端的に思えるかもしれませんが、『ガリバー旅行記』のスウィフトもデフォーと同じ小説の創始者に加えました。

これはサザーランド先生の、ファンタジー小説の系統を小説の系統に加えることを妥当だと感じたからです。

多くの文学史では、ファンタジー小説(物語ではなく小説形式の魔法などが登場する作品)はウィリアム・モリスから始めるようですが、モリスよりも前からそれらしい作品は多いので、そして経済的人間(貴族と農民ではなくて経営者と労働者の世界)こそが小説の核心であるというサザーランド先生の説を採用して、スウィフトとデフォーに二柱にしました。


『ゲーム制作のための文学』『

第十六章 小説の誕生(デフォーとスウィフト)

 物語と小説を区別する、誤解を恐れずに表現するのであれば物語と小説を対比させる習慣を奇妙に感じた人はいるでしょう。小説に物語は含まれており、そもそも小説と物語は似たようなものなので区別する必要はない、と。
 しかし、現在、小説と物語を区別するのは文学では一般的です。そして、小説と物語を区別するのには主に二つの理由があります。

 一つ目は、政治的な理由で、二十世紀における「大きな物語」と「小さな物語」というポストモダニズムの概念に起源を持ちます。
 二十世紀、ソビエト連邦が誕生したことで、人類は科学技術の発展により進歩するという考え方が生まれました。ソビエト哲学によると、まるでダンテの『神曲』のように、私たち人類は自由主義、社会主義、共産主義と発展して差別と貧困のない楽園に至ります。
 キリスト教では神への信仰により、あるいは正しい教会が教える正しい信仰の普及により社会は豊かになります。しかし、ソビエト哲学によると社会を豊かにするのは信仰ではなくて勤勉な労働です。科学技術の発展により社会は物質的に豊かになり、物質的に豊かになることで精神的豊かさを手に入れます。
 科学が生み出す明るい未来。科学を発展させると、衣食住に医療と教育を豊かにすることができて生活が豊かになる。ソビエト連邦は、このような教えにより科学者と技術者を重視した大きな物語を提唱します。
 しかし、宗教よりも科学を重視したソビエト連邦が衰退して崩壊すると、ソビエト連邦が提唱していた大きな物語ではなくて、物語の拒否、あるいは小さな物語というポストモダニズムの考えが広がります。
 ここでポストモダニズム小説というのは非ソビエト、非共産主義という文脈で物語の否定であり物語の拒否となります(リオタール)。
 科学技術が生活を豊かにする。これが大きな物語です。科学を否定して宗教や伝統を大切にするのが物語の否定です。そのため、文学の世界では、ポストモダニズムは保守の仲間とされる場合もあります。
 つまり、物語とは共産主義や社会主義の思想が表現されていて、小説こそが保守や伝統が表現されているという考えです。
 それだけではなく、そもそも自由主義も大きな物語です。資本主義が発展して、資本主義が発展することで物質的豊かさや精神的豊かさを手に入れる。このように人類の歴史の壮大な物語があるという点において、実は自由主義と社会主義は似ています。自由主義と社会主義は大きな物語により人々を鼓舞しました。
 二十世紀の自由主義(右翼)と社会主義(左翼)という物語を拒否する。
 そのために、小説と物語を区別します。右翼や左翼のプロパガンダではないという点で小説は物語ではありません。

 以上の小説と物語を区別する一つ目の理由は、「物語」という言葉が、ソビエト連邦の科学主義という歴史的な文脈で使われていたことの名残という特殊なものでした。しかし、二つ目の理由はより直接的です。
 二つ目の理由は、伝統的に、私たちが小説と呼ぶのは、歴史上、十八世紀のある明確な一点からはじまるとされているからです。
 その一点とは二つの小説、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』とスウィフトの『ガリバー旅行記』です。
 すべての小説は、この二つの作品から始まります。
 今日はこの二点について話します。

 イギリスの作家デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は一七一九年に刊行されました。セルバンテスの『ドン・キホーテ』は一六〇五年、バニヤンの『天路歴程』は一六七八年に刊行されています。時代としては近いですが、しかしセルバンテスやバニヤンは十七世紀で、デフォーは十八世紀なので、小説はいつ生まれたのかと問われれば、十八世紀に生まれたと答えると正解になります。
 さて、小説『ロビンソン・クルーソー』は主人公のロビンソンの誕生から始まり、無人島に漂流して、無人島で生活していく話です。彼は無人島を開拓して、フライデーという奴隷を手に入れて、最後は無人島から脱出して成功します。
 この小説がそれ以前の、ダンテ、ボッカチオ、ラブレー、セルバンテス、バニヤンの五人の文学者の物語と決定的に違うのは、それまでの五人が究極的にはキリスト教と人間がテーマであったのに対して、『ロビンソン・クルーソー』は究極的には資本主義がテーマになっている点にあります。
 ロビンソン・クルーソーは新しい(ノベルな)人間です。彼は開拓者です。資本家のように考え、資本家のように行動して、そして資本家のように開発して物質的な富を蓄えます。彼は経済活動をする人物なのです。
 経済的人間が主人公である。それが小説です。
 いかにしてキリスト教徒になるのか、ではなくていかにして自分の人生を切り開いていくのかが小説の特徴です。小説の登場人物は、神ではなく、信仰ではなく、環境や周りの人々と関わりながら成長していきます。
 そこにはキリスト教もあるでしょうし、信仰や革命がテーマになっていることもあるかもしれません。しかし、それでも小説とは資本主義という新しい社会で生きていくことが前提となる点で物語と異なります。
 さらに加えるならば、小説には労働という概念があります。
 ダンテの『神曲』は死後の世界の物語です。衣食住は必要なく、そこで問題になるのはお金ではなくて信仰でした。
 また、セルバンテスの『ドン・キホーテ』においても、目に見える世界と妄想の違いが問題になっていました。そして、彼の妄想が問題なのは破産するからではなくて、それがまさに妄想だったからです。
 しかし、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』においては、ダンテやセルバンテスが描いている世界とは、世界のルールから異なっています。労働がなければ、人間が死んでしまう世界を描いているのです。
 主人公は無人島を開拓して、衣食住を確保しなくてはなりません。そして、そのために彼はフライデーを必要としたのです。
 資本主義においては、私たちはどのように生きるべきなのか。資本主義で生きる経済的人間を描くのが小説です。

 いっぽう、スウィフトが『ガリバー旅行記』(一七二六年刊行)で問題にしているのは科学と進歩です。小説『ガリバー旅行記』には、四つの地域が登場しますが、科学の国ラピュタは進歩のための進歩、進歩と科学そのものが目的となっている破滅的な国で主人公のガリバーは異常な国だと嫌悪します。
 科学と進歩以外にも、小説『ガリバー旅行記』には、当時の社会問題と思われる多くのことが扱われています。スウィフトはセルバンテスのような信仰と現実の対比ではなく、現実そのものを問題とします。スウィフトは、現実に起きている出来事の何が問題であるのかを考える問題の発見者です。

 セルバンテスは宗教や古典とは異なる、もう一つの「現実」という領域が存在していることには気がついていました。
 しかし、現実とは何かについて深く考えようとはしませんでした。
 ここで私たちは物語という何かを宗教や哲学、思想を伝えるのではなくて、自分が見えている世界観を表現するような活動を、主張を伝えるのではなくて自分が見えている世界を見せるという創作活動を始めます。資本主義で生きていくことを表現します。こうして、現在の小説が生まれたのです。

 ここで私たちはジャンルとしてのリアリズムと、文学的立場としてのリアリズムを別けて考える必要があります。ジャンルの世界では、より自分の生活に近い、エッセイに近い作品をリアリズム、遠くになるほどファンタジーと呼ぶことが広く行われています。魔法が存在しなければリアリズムです。
 しかし、文学という文脈においては、デジタルゲームのジャンルにおける異世界冒険RPGはファンタジーではなくてリアリズム文学に分類されるべきです。なぜなら、日本の多くのRPGでは、お金のためにダンジョンに潜りモンスターを倒して、お金を払って自分の装備を整えるからです。
 武器屋で購入できる剣や鎧が生産手段(売れるものを生みだしてお金を稼ぐための道具)として機能しており、お金を手に入れると生産手段を手に入れて、生産手段を豊かにしていくことでよりお金を稼ぐことができるようになるというのは資本主義です。また、冒険の仲間を集めることにより、チーム全体の生産能力が高くなる、特に役割分担により効率的になるところも資本主義です。
 RPGでは悪魔の誘惑を振り切るためではなくて、生活のために冒険します。まさに経済的人間が表現されています。

 大胆な表現を使うのであれば、日本の代表的なRPGは資本主義を一つのコンテンツに集約させた完全な小説と呼ぶことができます。そして、この資本主義を表現したところがRPGの面白さであると言えるのかもしれません。
 RPGの面白さは、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』に似ています。働いて稼いで豊かになる。豊かになる過程で人を雇い、船などの移動手段を手に入れて、畑や工場などの生産手段を獲得します。冒険を進めることで、主人公達は物質的な豊かさを手に入れることができるようになります。
 そればかりか、経済的人間である主人公、ロビンソン・クルーソーである主人公には最終目的があります。アメリカ独立戦争やフランス革命、このような自由主義革命により、封建時代の象徴である魔王とその配下の貴族達を皆殺しにして自由主義国家を建国するのです。資本主義社会を作るのです。
 魔王を倒すために旅に出る勇者はまさにロビンソン・クルーソーであり、そして彼は経済的人間として封建的人間である魔王とその配下を倒します。RPGとは経済的な自由主義者が宗教と権威主義の保守を倒して行く物語なのです。そして、この革命思想がRPGの面白さであると言えます。現代ファンタジーは資本主義の誕生を描くのです。
 もし、『ゲーム制作のための文学』で伝えることができるゲーム制作のための助言があるとするならば、それは面白いRPGとは宗教や理念ではなくて、資本主義を再現したRPGであるということでしょう。イギリスから始まり十九世紀に流行した小説という分野は、今ではファンタジーというジャンルにより引き継がれていると思われます。むしろ、RPGは小説よりも小説なのです。
 そこに元々の意味でのファンタジーはありません。登場人物達が妄想と信仰により救われることもありません。

 文学におけるリアリズムとは形式ではなくて世界観です。私たちは生きていくために労働を必要としている、それがリアリズムです。この点において、インターネット小説として人気のジャンルである「異世界転生」は典型的な小説です。
 主人公は例外なくロビンソン・クルーソーのような経済人で、彼らは必死に経済活動をしながら生き延びていきます。異世界転生は資本主義の仕組みを描いたことで有名になり、ソビエト連邦を生みだしたことで有名になった、あの現代文学の重要文献、マルクスの『資本論』そのものなのです。

』『ゲーム制作のための文学』


というわけで、経済的人間を意識することは、ゲーム制作において重要かもしれないという提案でした。

バルザックの愛読者だったマルクスによる、資本主義とは何か、そして経済的人間とは何かが書かれていた『資本論』は多くの人に読まれて、そして今でも世界中で読まれている重要書籍(危険な宗教書扱い)です。

サルトルやデリダ、ラカン、フーコー、イーグルトンやジジェクなどに代表される二十世紀の文学や現代思想は、この経済的人間をどのように考えるのかという点で『資本論』を中心に回っていたと思えます。


現実とは何かは時代によって異なります。

封建時代では封建時代の現実が、そして資本主義では資本主義の現実があり有名なファンタジー作品というのは、分かりにくい資本主義の現実を抽象化して表現している、という結論です。

そして、まさに資本主義を描いているという点で、英米や日本では、すなわち資本主義が発達した国ではトールキンのようなファンタジー作品が増えたのだと私は解釈しています。


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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