書評:『〈知〉の取り扱い説明書』(仲正昌樹著、作品社)
1.はじめに
正直侮っていたと言わざるを得ない。
著者はこれまで多くの思想家についての入門書・解説書を執筆しており、その著者が個別の「知」ではなく「知」そのものをいかに取り扱うかを教えてくれるというのは、強く興味を惹かれるものだった。
だが読み始めて私は落胆した。多少の勉強の仕方の他はバカな学生や大学、SNSを含めたネットへのグチが書き連ねられているばかりで、特筆すべき点のない凡庸な本だと失望した。
ところが中ほどまで読み進めたとき、突如としてソーカル事件批判がぶち上げられたことによって事情は一変した。
ソーカル事件とは「物理学者のソーカル(1955-)がインチキ科学哲学論文を書いて、社会思想系のそれなりに有名な雑誌に投稿して、採用され、後でそれを自分でバラし、だから、ポストモダン系はいい加減と煽ったことから起きた騒動」(p.98)のことである。その後、ソーカルはブリクモンとともに『「知」の欺瞞』を出版し、ポストモダン思想における理系概念の濫用を指摘、批判した。著者はこの『「知」の欺瞞』までを含めて批判している。
わずか2ページほどの分量ではあるが、そこには煮えたぎるマグマのようなパトスが噴き上がっていたのである。
するとどうだろう、それまで退屈だと思われていた記述の中に、まるで推理小説のように伏線が張り巡らされていたことに私は気が付いた。
この伏線はすでにタイトルから張られていたものであり、ソーカル事件への反論のみならず、本書の記述全体を律していたのである。
この緻密な構成こそが著者の言う「知」の実践なのかと私は感服した。そしての感動を少しでも多くの人と分かち合いたいと思い、この拙文をしたためた次第である。
2.真の知識人とエセ知識人
本書のタイトルは『〈知〉の取扱説明書』である。
手近にある取扱説明書を開いていただきたい。そこには正しい使用法と間違った使用法が記されている。これは「知」にも正しい使用法と間違った使用法があり、著者には何が正しく何が間違っているかの判断基準があり、かつその判断基準が正しいことを決定する権利があることを示している。
なぜ著者は自分の判断基準が正しいと決定することができるのか。結論を先に述べてしまうなら、著者が「真なる知識人である人文学者」だからである。
本文冒頭には次のように書かれている。
実に含蓄に富んだ一節であり何度も熟読玩味すべきだろう。
ここで著者は真の知識人とその名に値しない〝知識人〟や自称〝知識人〟(仮にエセ知識人と総称する)を区別できると自負している。その自負は大したものだし、そのように自負する著者がまさかエセ知識人のわけがないだろう。
もちろん著者がエセ知識人でも構わないのだが、そうするとこの本はエセ知識人がエセ知識人を糾弾する自己批判の書ということになる。
真の知識人とエセ知識人の違いはどこにあるのか。われわれ一般人はいかにして見分ければいいのか。
著者は彼らの「テクスト」を読まねばならないと言う。だが、「テクスト」とは何を指すのだろうか。
著者は奥ゆかしく「知」の範囲を学術論文に限定しているが、遠慮することはない。大学教授などの知識人の持つ「知」の実践は何も学術論文のみとは限らない。
「知」を学術論文として表すのも取り扱い方のひとつである。しかしひとつであって全てではない。ネットで放言するのも取り扱い方のひとつであり、マスコミ向けに書くのも取り扱い方のひとつである。そして全く取り扱わない(死蔵する)のもまたひとつの取り扱い方だろう。
そしてたとえ大学教授の放言と学術論文に関係がなくとも、大学教授の持つ「知」と放言には関係があるのだ。
ツイートやブログで発信される放言やマスコミ向けの文章も「テクスト」であり、知識人がどのように「知」を実践し、範を示しているかを知るには、それらのテクストが教えてくれることになる。
そしてこの一節は、「知」が必ずも人格の涵養に役立つわけではないことも教えてくれる。「知」が必ず人格を涵養してくれるのならば、ネットで放言を繰り返す大学教授が現れることもないだろう。
「知」が人格の涵養に必ずしも役立つわけではない(直接的な結びつきがない)のであるならば、「知」は何に役立つのだろうか。
それは真の知識人たる著者が、本書の全体を通して教えてくれることになるだろう。
3.真の知識人のランク付け
著者によると、真の知識人とは正式に学術論文を発表した大学教授だということになる。しかし真の知識人の中にもランクはある。
著者は次のような者達を完全に見下している。
あるいは
このように見下している連中のことを、著者は真の知識人として認めるのだろうか。「学者としての人生で負けています」「老害」とまで言い切っているのに?
しかし著者は知識人を知るにはテクストを読まねばならない、そのテクストはネットでの放言でもマスコミ向けの文章でもなく、学術論文であると言う。だとしたら知識人たる資格は学術論文を発表したか否かということになるだろう。
だとしたら、学者としての人生で負けていたり老害であったりしても、学術論文を発表していれば知識人だということになる。しかしその中でもダメな学者や老害がいるということは、質の良い知識人と質の悪い知識人がいるということになる。
そしてダメな学者や老害として一部の知識人を見下げているように、著者は自分を質の良い知識人に区分しているだろう。もちろん質の悪い知識人に区分している可能性もあるが、その場合、この本は質の悪い知識人が質の悪い知識人を糾弾している自己批判の書ということになる。
4.ソーカル事件批判
それではいよいよ著者によるソーカル事件批判を見ていくことにしよう。
ここにひとつ情報の歪曲がある。ソーカルとブリクモンはあくまで理系の概念の濫用を批判しているのであって、ポストモダン思想全体を否定しているわけではない。
該当する箇所をいくつか、私の手持ちの2000年発行版『「知」の欺瞞』(岩波書店)から引用しよう。
当然のことながら、二人の意図を越えてポストモダン思想全体を否定するのであれば、それこそ「知の濫用」のそしりを免れないだろう。
著者によるソーカル事件批判に戻ろう。
ポストモダン系の思想の雑誌であることと新左翼系の雑誌であることは別に矛盾することではない。まさか現代思想がまったく法や政治に関わっていないとは著者も言わないだろう。
言葉の彩なら適当なことを書いてもいいのかだろうか。そもそも言葉の彩になっていないというのがソーカルとブリクモンの主張である。
誤った知識をもとにした比喩が正しい理解を促すとは思えないのだがいかがなものか。
何をその人の主要著作とするかについては色々と意見があるだろうが、しかし例えばドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』でときには数ページにわたる記述を、主要著作でも論証の最重要部でもない「周辺的なテクスト」とするのは無理がないだろうか。
さらには「この程度の比喩なら、理系の学者でも使うだろう、という感じがします」とはあまりにも曖昧な物言いである。「印象で「ダメ」は、ダメ」(p.78)と言ったのは著者自身ではなかったか。
印象で語ってならないのはその通りである。であるならば、「~だろう、という感じがします」などという曖昧な印象で語るべきではないし、自分の言に従ってきちんと使ったところを実証すべきである。
まず、ポストモダン思想の全体を知らないならポストモダン思想における理系概念の濫用を批判をしてはならないとはならない。著者もまた「理系のことを全部分かってる人間などいるはずないじゃないですか」(p.113)と述べているが、それでも後で検討するように理系批判を行っている。
次に、反論をあらかじめ予想し、それに再反論しておくことは悪いことではない。肝心なのはその再反論が理にかなっているかどうかであり、それに対して「言い訳」「揚げ足取り」としか返せないのだとしたらソーカルとブリクモンの図星だったことになる。
「あらかじめ、相手の反応を予測して、言い訳しておいたら、論破したことになるのか」は反語としては「論破したことにならない」だが、これは相手の再反論自体を無効化したいだけである。
例えば著者はレポートを提出してきた学生に質問し、それに対して答えられなかったらどうするのか。本作中で何度も繰り返したように「バカな学生」だと言って鼻で笑うのか。それともそもそも反論を許さないつもりなのだろうか。むしろ勝手に相手にルールを押しつけて相手の行動を規制しようとしているのは著者のほうである。
文中の「ネットの安易な自称反ポストモダンの連中」というのが具体的にどのような連中か具体的な記述はないが、ひとまず「ポストモダン思想の文章を読んでないのにポストモダン批判する連中」ということにしておこう。
ソーカルとブリクモンの二人と、「ポストモダン思想の文章を読んでないのにポストモダン批判する連中」をしっかり分けないといけない。ソーカルとブリクモンは、きちんとポストモダン系のテクストを読んだのだから批判することができる。そして二人の理系の知識はその分野で大体確立された知識であるので、既成事実として信用させてもらうことができる。
しかし、これは何度でも強調しておくが、ソーカルとブリクモンの検証をもってポストモダン思想全体を否定する叩き棒とするのなら、それは二人の意図から外れるものであり、虎の威を借りる狐である。
ところで著者はソーカルとブリクモンの再反論を「言い訳」としているが、これは一つの印象操作である。「言い訳」とは、私の持っている『新明解国語辞典』によると、「自分のした失敗・過失などについて、そうならざるを得なかった事情を客観的に説明して、相手の了解を得ようとすること」である。
つまり著者は、ソーカルとブリクモンがなんらかの失敗を犯し、それに対して取り繕おうとしているとしたい、あるいはソーカルとブリクモンが「失敗した」ことにしたいと考えていることになる。だが、一体何が「失敗した」のだろうか。これは後ほど判明する。
ポストモダン思想全体がデタラメかどうかは知らないが(ソーカルとブリクモンはそれについては言及していない)、しかし著者の記述を読む限り、そもそもポストモダン業界全体が緩いのだと言わざるを得ない。つまり、ソーカルの論文が採用されたからポストモダン思想がデタラメなのではなく、ポストモダン業界がデタラメだからソーカルが論文を投稿したのが正しい。因果関係が逆なのだ。ポストモダン業界がポストモダン思想の「言葉の彩」を許していたことが、ソーカルがパロディ論文を思いつくきっかけになったのだ。
著者は「その雑誌の査読体制が、科学論文系に関して緩すぎた」と言っているが、ということは当然だが査読の緩くない雑誌もあるはずである。しかしソーカルがパロディ論文を書こうとしたきっかけである各思想家の著作がそのまま世に出ているということは、業界全体のレベルがその程度だということになる。
著者はポストモダンにおける「言葉の彩」と『ネイチャー』に掲載されたフェイク論文を同列に置いているが、それならばそれ相応の対応をポストモダン側は取っているのだろうか。本書で言及されているSTAP細胞事件でも『ネイチャー』に載った論文は撤回され、関係者は処罰されているが、ソーカル事件の後にきちんと撤回されたポストモダンの著作はあるのだろうか。それがなされていないのなら、著者の対比に従う限り、「文系には学問の手続きが不要」だと思われても仕方ないだろう。
5.批判するは我にあり
それにしてもなぜ著者はこれほどの熱量をもってソーカル事件に対して反論を行うのだろうか。あたかも信ずる神の無謬性を傷つけられた信徒のようである。
もちろん不当な言いがかりに対して反論を行うのは正当な行為であるだろう。しかしソーカルとブリクモンのものは「ポストモダン思想の文章を読んだうえで批判している」のであるし、その批判内容はポストモダン思想の理系概念の濫用である。著者もポストモダン思想における理系概念の濫用自体は否定していない。ただその濫用を「言葉の彩」としてすませているだけである。
著者のこれほどの熱意を引き起こした原因は、おそらくソーカルとブリクモンの批判が著者にとって許しがたい越権行為だからだと思われる。
「学問分野によって関心の中心が違い、それぞれに違ったルールがある」ことに気付かず、無粋な突っ込みをしてしまったソーカルとブリクモンは「大人」ではなかったらしい。「そういうことを知っていることが大事」なのである。
そもそも著者によると、人文系の学問は引用や注を疎かにしてもいいのである。
引用や注の間違いを疎かにしていたら人文系の学問ができないというのなら、そもそもマルクスやアーレントは人文系の学問をちゃんとできていないことになってしまう。しかし一般的に、マルクスやアーレントはちゃんと人文学をやっていることになっている。そうすると、その一般的な評価が実は間違っているか、引用や注の間違いを疎かにしていても人文学はちゃんとできるのだということになる。そしてマルクスやアーレントが実は人文学ができていないのだとしても、ちゃんとした人文学者として流通している以上、結局引用や注を疎かにしてもいいのだということになる。
ちなみにここのマルクスとアーレントをポストモダン思想にすると、まるきり著者に当てはまることを指摘しておこう。ソーカルとブリクモンに間違いを指摘されても「言葉の彩」ですませる著者は、「神様は間違わない」と思っているのだろう。
著者は文系のやり方に口をはさむ理系学者にも苦言を呈している。
だが、著者もまた理系のおかしいと思ったことには口を出している。そしてそれに対し社会の違いを持ち出されることには納得せず不満たらたらである。
だとしたら文系の大学教員の就職について理系から「うちではそんなことはありません」と言われても納得するしかないだろう。それとも「あんたたちは、文系的じゃない」と言うつもりだろうか。
それはそうかも知れないが、だったら「よその社会に口を出すのは大人ではない」という話はどこへ行ったのだろうか。それでいいならソーカルとブリクモンがポストモダン思想の理系概念の濫用に口を出すことも正当だとなるし、それに対して文句を言うのは不当だということになる。なぜ大人がどうたらなんて話題を出したのか。
自分が他の社会に手口を出すのは正当だが、他から自分の社会に口を出されたときはことさら違いを強調し、攻撃されていると被害者意識を募らせれるのは公平とは言えないだろう。
しかもこの引用個所は、理系と文系を入れ替えると、そのままポストモダンとそれを擁護する著者に当てはまってしまう。
理系の学問を引用しまくるポストモダン思想家は「何でも答えられる万能の専門家」になったつもりだろうし、理系の学者(ソーカルとブリクモン)に「それはあなたの専門ではないでしょ」と聞かれると、「言葉の彩の分からない感情的発言だ!」と感情的に反応してその疑問を強引に封じ込めようとする。
さらに著者は理系に対し、それこそ「揚げ足取り」としか言いようのない口出しをしている。
電気の無駄遣いをしないのは理系文系以前の一般常識だと思うのだが、文系の常識では違うのか。試薬の量をちゃんと計算するのは実験結果に関わるし、試薬を無駄に使っていいわけでもないだろう。換気をしっかりするのも安全上してしかるべきだ。また、それ以外のこともそれぞれの研究室(社会)のルールの違いの範囲である。著者も大人になるべきではないのか。
だが、そうではないのだ。文系の真なる知識人である著者は、大人になる必要などないのだ。次はそれについて述べる。
6.教養とは何か
それにしても、なぜ文系の著者は理系に対して口出しをしまくるのに理系の学者から文系への口出しは断固として許さないのだろうか。その理由は著者の文系の学問への関わり方、そして最終的には文系の学問の成り立ちそのものにある。
著者は「学問と自分が一体化してしまう困った人」(p.115)として次のように書いている。
ここは著者自身が学問と一体化している例である。自分が法学的な思考ができていると考えないと、相手の思考が法学的に正しいか否かの判定ができないだろう。
この理屈は法学だけでなく、著者の挙げている分子生物学や疫学、歴史学の全てに当てはまる。そうでないなら、なぜ著者は相手の言っていることが科学的、歴史学的に正しいか否か判断できるのだろうか。分子生物学者や疫学者の言っていることが、科学全体に当てはまることもあるし、当てはまらないこともある。しかしそれを判断するには、自分がその判断基準を持っていなくてはならない。
また、ポストモダン思想と一体化していないと、ポストモダン学者の述べる、理系の学者でも意味の取れない専門用語の羅列を、「言葉の彩」「単に分かりやすい比喩」と判断することもできないだろう(「ポストモダン的には……」)。
しかしそういう学問と自分が一体化して異論を封じ込めようとするのは「有害」で「教養がない」のではなかったか。
だとしたら、学問と一体化している著者は教養がないことになってしまうが、それでは本書は教養のない人間が教養のない人間を糾弾する自己批判の書になってしまう。まさか真の知識人である著者に教養がないわけがないだろう。この矛盾をどう解釈すればいいのか。
だが、これにも著者はちゃんとヒントを出している。著者が「学問と自分が一体化した人」と表現したことをよく考えなくてはならない。
一体化とは「いくつかのものがまとまって一つの組織となること」である。学問でないものが学問と一体化するから教養がないことになるのであって、そもそも学問自体であるのなら教養がないことにはならない。つまり、著者は学問のイデアであり教養そのものである。これならば矛盾は生じない。さすがである。
それではこの教養について、著者はどのように述べているのだろうか。
「こういう能力」は別に人文系の学問全般に限定する必要はなく、理系の学問にとっても必要なものだろう。なぜ著者は「人文系の」と限定しようとするのか。もちろん著者は理系の学問を全く無視しているわけではない。筆者は続けて「学者、知識人になるつもりがない人でも」と、人文系の学問以外でも必要だと述べている。だとしても、それは理系の学者は学者や知識人ではないことになるだろう。なぜ著者は理系の学者を学者・知識人から締め出そうとするのだろうか。
それはそもそも「フマニタス(humanitas)=教養」(p.22)だからである。
このフマニタスの伝統の価値観においては、人文系の学問(フマニタス)は「人間」、つまり国家運営に関わる市民にとって必須の教養であり、理系の学問はそうではない副次的なものである。だから人文系そのものである真の知識人である著者は、ナチュラルに理系の学者を学者・知識人の範疇から外してしまうのである。そして副次的な学問である理系の学者のソーカルとブリクモンによる指摘は分を弁えない「揚げ足取り」であるし、そういう揚げ足取りをしてしまったことは「失敗」であるのだ。
7.人文学パンテオン
こうして著者による人文学的ヒエラルキーの世界観が明らかになる。
まず頂質の良い人文学的知識人を頂点とし、その下に質の悪い人文学的知識人と理系の学者が位置する。この二者の上下関係は不明である。その下に学術論文を発表したことのない一般人が存在する。
この人文学パンテオンに君臨するのが学問のイデア、教養そのものである著者である。なぜならば、知識人の質が良いか悪いかを判定する権能を持っているのだから。
こうした世界観において、雲上人である著者からは地上にうごめくわれわれ一般人はどのように見えているのだろうか。
端的に言って「馬鹿」である。
光輝く人文知に浴することのできないわれわれ一般人にとって、真の知識人である著者によって与えられる数々の入門書・解説書は、まさに恵みの雨である。人々は「なるほどこれは分かりやすい。ありがたいことだ」と涙を流して喜ぶだろう。アマゾンレビューにもそのような感謝の言葉が数えきれないほど書き連ねられている。
そうした人々に対して著者が放つ言葉が「馬鹿」である。
本職の理系学者ですら意味不明と投げ出すポストモダンの難解な記述を、分かりやすい言葉の彩として読み解く著者からしたら、「馬鹿なお前たちにも分かりやすいように概念を固定して簡単にしてやっている」のだ。大変な手間をおかけしてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいである。
われわれ馬鹿な一般人は真の知識人である著者に「分かりやすくしていただいている」ことを忘れず、こうべを垂れて感謝しなくてはならないのだ。讃えよう!