米軍で学んだ心理的安全性の本質~真に強い組織は「萎縮」しない~
はじめに
「あなたの職場では、自由に意見を言えますか?」
この問いかけに、どう答えるでしょうか。職場で新しいアイデアを出したり、上司や同僚の方針に疑問を感じたりするとき、遠慮なく発言できていますか。それとも、気まずい空気が流れ、結局何も言えないまま終わってしまうことはないでしょうか。
心理的安全性(Psychological Safety)という概念は、1999年にハーバード大学のエイミー・エドモンドソン教授によって提唱されました。「チーム内で対人リスクを取ることができる、という共有された信念」と定義されるこの概念は、2012年のGoogleの大規模な研究プロジェクト「Project Aristotle」でも注目を集めます。最高のチームの共通点を探るこのプロジェクトで、Googleは驚くべき発見をしました。メンバーの能力や経験以上に、チームの成功を決定づけていたのは「心理的安全性」の存在だったのです。
私自身、この心理的安全性の重要性を、まさに対照的な二つの世界で痛感することになりました。一つは軍隊という特殊な環境です。自衛隊では迷彩服に身を包み、厳格な上下関係の中で時に理不尽とも思える訓練を経験し、その後、米国陸軍士官学校への留学では異なる軍事文化に触れる機会を得ました。もう一つは民間企業という世界です。スーツに身を包んでM&A関連の営業やコンサルティング業務に従事する中で、組織の在り方について深く考えさせられました。一見すると、軍隊とビジネスの現場は全く異なる世界のようですが、両方を経験したからこそ見えてきたものがあります。
本記事では、自衛隊という特殊な組織で体験した「声を上げられない苦しみ」から、ウエストポイントで目の当たりにした「自由な議論の文化」、そしてビジネス最前線での実践まで、私自身の経験を通じて心理的安全性の本質に迫ります。時に理不尽な軍隊組織で、なぜある上官の下では部下が萎縮し、別の上官の下では組織が一気に活性化したのか。世界最高峰の米軍士官学校では、どのように階級を超えた自由な議論が可能になっているのか。理論と実践の両面から、組織の「空気」を変える具体的なヒントをお伝えしていきます。型破りかもしれませんが、軍隊組織での経験こそが、今を生きるビジネスパーソンに必要な「心理的安全性」のエッセンスを教えてくれるはずです。
【第1章】自衛隊での経験から学んだ「叱る」と「怒る」の違い
極限状態の中での訓練と上下関係
自衛隊で過ごした高校生からの数年間は、今振り返っても特異な経験でした。少年工科学校(現・高等工科学校)や防衛大学校では、10代から迷彩服を着用し、厳格な上下関係の中で生活を送ります。そこには一般的な学校生活とは大きく異なる秩序があり、時に極限状態ともいえる訓練が課せられました。
例えば、暗闇の山道を静かに進む夜間斥候(せっこう※偵察のこと)訓練、地面を這いながら実弾が頭上を飛び交う中を前進する過酷な演習、催涙ガスを浴びてガスマスクの重要性を身をもって知る体験など、これらは確かに精神と身体を鍛え上げるのに効果的でした。しかし、このような環境では、上官や先輩が感情的に叱責をしたり、一方的に命令を下したりする場面も少なくありませんでした。高校時代、夜中に先輩に呼び出されて、指導という名目で殴られたり蹴られたりしたことも未だに記憶に残っています。
「怒る」と「叱る」が分ける組織の明暗
自衛隊は「組織の秩序を守る」ことが極めて重視される世界です。そのため、トップダウン型の指示が基本となり、下の者は疑問を抱いても言い出しにくい状況が生まれがちです。疑問や不満があっても、口に出せば「余計なことを言うな」「考え過ぎだ」と否定されることも多く、結局萎縮してしまいます。その萎縮は、組織全体の生産性や柔軟性を低下させ、現場の声がリーダー層に届きにくくなります。
とはいえ、自衛隊の中にも「怒る」と「叱る」を明確に区別する優れた教官や上司が存在しました。「怒る」というのは、上官が自分の感情を発散する行為であり、相手の人格を否定するようなものです。一方、「叱る」はミスや問題点を冷静に指摘し、改善策を示す建設的な行為です。後者の場合、部下は失敗から学び、次のステップへ進むことができます。
こうした「叱る」文化を実践する上司の下では、どんなに厳しい訓練でも部下が意見を述べやすい雰囲気が保たれ、問題があれば報告しやすく、改善案も出しやすい環境が整います。結果として、部下はミスを隠す必要がなくなり、全員が協力してより良い方法を見出すことができるのです。
私が自衛隊で学んだのは、上下関係が厳しく指示に従うことが最優先される中でも、心理的安全性を高める余地があるということです。感情的に怒鳴るのではなく、なぜその行動が問題だったのか、どう改善すれば次に同じミスを防げるかを論理的に伝えることで、部下は「この上司は自分の成長を考えてくれている」と感じられます。すると、部下はより主体的に動き、上官が把握しきれない現場の問題点や改善策を率直に報告できるようになります。
このような建設的なフィードバックをする上司は、ただ怖いだけの存在ではありません。むしろ「厳しさの中に愛情がある」と感じられるため、部下は一層その指導者を信頼し、組織の一員として責任を持って行動できるようになるのです。
【第2章】米軍に学ぶ「誰が言ったか」より「何を言ったか」を重視する文化
名門ウエストポイントでの衝撃的な経験
米国陸軍士官学校(ウエストポイント)への留学経験は、私にとって衝撃的なものでした。第3代大統領トーマス・ジェファーソンによって1802年に創立されたこの学校は、アイゼンハワー大統領やマッカーサー元帥といった著名な軍人をはじめ、多くの優秀な人材を輩出してきました。入学難度は非常に高く、アメリカ国内でもトップクラスの倍率を誇ります。各志願者は連邦議会議員からの推薦状が必要とされ、学業成績や運動能力、リーダーシップなど、あらゆる面での卓越性が求められます。
私は日本の防衛大学校から、学年で唯一の日本人留学生として選抜される機会を得ました。この伝統ある教育機関で学べることへの誇りと責任を感じながら、アメリカ人学生たちと共に学んでいきました。自衛隊では上下関係が強く、下から上へ意見を上げるのは容易ではありませんでしたが、米軍の教育現場では「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」を重視する文化が根付いていたのです。
対話を重視する教育現場
朝6時にラッパが鳴って点呼を取り、朝食の時間になると、上級生が下級生に「昨日のニュースで気になった出来事は何か」と尋ねます。ここで重要なのは、下級生が社会や国際情勢に関心を持っているか、そして自分の言葉で意見をまとめられるかという点です。もし答えに詰まれば厳しい指導を受けますが、その指導も「なぜ準備できなかったのか」「どうすれば次は対応できるか」という建設的なものです。決して人格否定ではなく、あくまで国を担う士官候補生としての責任を促す指摘なのです。
階級を超えた自由な議論の実践
軍事戦略や作戦ケーススタディを扱う授業や訓練では、階級や年次に関係なく意見が飛び交います。1年生が「この作戦はこう改善できるのではないでしょうか」と発言しても、「まだ若造が生意気に」といった態度を取る上級生はほとんどいません。むしろ、「なるほど、その考え方は新しいね」と受け止め、全員で議論を深めていきます。
こうした環境は、上官や指導者が自分の権威を振りかざさず、情報をオープンに共有し合うことで成り立っています。結果として、一人の視点や経験だけでは思いつかない戦略や解決策が次々と生まれ、組織全体の柔軟性や対応力が飛躍的に高まります。誰かが異なる意見を言っても、「それは違う」と即座に否定するのではなく、「なぜそう思うのか」を尋ねる雰囲気があるのです。
アイデアを引き出す組織文化の力
この「誰が言ったかより何を言ったか」を重視する姿勢には、米軍という組織の本質が表れています。最前線で戦う組織にとって、情報の正確性と迅速な共有は時として生死を分けます。そのため、階級や経験年数による情報の遮断は組織にとって致命的なリスクとなりかねません。
実は、この仕組みこそが組織の最適解なのかもしれません。なぜなら、戦場という極限状況では、一人の指揮官や少数の上級者の判断だけでは不十分だからです。下級兵士を含めた「全員のセンサー」を最大限に活用し、些細な変化や違和感も見逃さない。それを可能にするのが、心理的安全性という土壌なのです。
この経験は、後のビジネスの現場でも大きな示唆を与えてくれました。社長や部長の方針が絶対視され、若手が意見を言いづらい職場では、市場の変化や現場の課題を見逃してしまいがちです。一方、全メンバーの「センサー」を活かせる組織では、より早く正確に環境変化を捉え、適切な対応が可能になります。
このように考えると、もはや心理的安全性は単なる「働きやすさ」の問題ではありません。それは、組織が生き残り、成長していくための必須条件なのです。米軍という、ある意味で最も過酷な環境で磨かれたこの知恵は、現代のビジネス組織にも重要な示唆を与えてくれています。
【第3章】組織の成否を分ける現場の声 ―軍事史とビジネスの教訓―
歴史に学ぶ「現場の声」の重要性
心理的安全性がある組織とない組織の違いは、歴史を振り返ると明確に見えてきます。軍事史には、下からの意見を無視して大きな損害を出した例や、逆に下部組織の声を取り入れたことで見事な成功を収めた例が多く存在します。
防衛大学校で我々が最も重要な教訓として学んだのが、1944年の日本陸軍によるインパール作戦でした。ビルマ(現ミャンマー)から英領インドのインパールを目指したこの作戦は、作戦主任者である牟田口廉也中将の独断的な判断により、悲惨な結末を迎えることになります。
補給路が確保できない険しい山岳地帯での進軍を強行し、兵站を軽視した作戦は、まさに「無謀」そのものでした。参謀たちからは「食糧や弾薬の補給が追いつかない」「雨季に入れば道が使えなくなる」という具体的な進言が何度もなされましたが、牟田口中将はこれらの意見を一切聞き入れませんでした。
結果として、約8万5千人の将兵のうち、実に約3万人もの死者を出す大惨事となりました。多くの兵士は戦闘ではなく、飢餓や病気で命を落としたのです。作戦後、生還した将兵の多くは「現場の声を無視した指揮官の驕り」が招いた悲劇だと証言しています。
この作戦は、現代の組織運営にも重要な示唆を与えています。いかに優秀な指揮官であっても、現場の実態を無視し、部下の意見に耳を傾けない姿勢は、取り返しのつかない結果を招きかねないのです。実際、防衛大学校では「インパール作戦の教訓」として、現場の声を軽視することの危険性と、組織における双方向のコミュニケーションの重要性を繰り返し学びました。
軍事組織からビジネスまで共通する課題
必要だったのは「下層の意見を自由に述べられる環境」でした。もし補給の専門家や前線部隊が、状況をありのまま報告し、「このルートは現実的ではない」と直言できていれば、作戦方針を見直す余地があったはずです。しかし、心理的安全性がないと、人は情報を隠したり、発言を控えたりしてしまいます。結果的に指令部は不完全な情報のもと判断を下し、組織全体が困難な道を進むことになります。
この現象は、軍事組織だけでなくビジネスでも同様です。私がM&A業界にいた頃、人格を否定するような言葉で部下を追い詰める上司がいました。その職場の雰囲気は極めて悪く、私自身も日常的に否定的な言葉を浴びせられ続けました。かつては意欲を持って取り組めていた仕事が、いつしか耐えがたい重荷になっていったのです。
この問題は、職場全体にも大きな影響を及ぼしていました。同僚や後輩たちも、上司の容赦ない叱責を恐れて、次第に意見やアイデアを口にしなくなっていきました。組織を改善しようという意欲も失われ、最終的には若手社員が次々と退職するという事態に発展しました。有能な人材が流出し、残された社員も萎縮して働く――そんな負のスパイラルに組織全体が陥っていったのです。
変化の時代に求められる組織の強さ
一方、心理的安全性が確保されている組織では、下から意見が上がりやすく、上司も耳を傾けてくれます。結果として誤りを早期に修正したり、新たな市場機会を見つけたりといった前向きな展開が可能となります。これは、私が塾講師として働いた経験でも実感しました。生徒が質問しやすい環境を作ると、学習意欲が高まり、理解も深まります。生徒が疑問に思うことを遠慮なく言えるため、講師も指導方法を改善できるのです。
VUCA(変動性・不確実性・複雑性・曖昧性)の時代と呼ばれる現代社会では、環境が目まぐるしく変化します。その中で、新しいアイデアやリスク情報を素早く取り入れられない組織は、やがて生き残ることが難しくなります。心理的安全性がある組織は、部下や現場からの情報が滞りなく上がってくるため、問題が小さいうちに対処でき、柔軟な戦略転換や革新を行いやすくなるのです。
【第4章】心理的安全性を高めるリーダーの3つの力
心理的安全性を高めるためには、リーダーシップが大きな鍵を握ります。組織のトップや管理職がどのような態度で部下と向き合うかによって、下からの声が活かされるか、閉ざされるかが決まってきます。ここでは、リーダーが意識すべき3つの力について整理してみましょう。
①部下を萎縮させない技術
大切なのは「怒る」と「叱る」を明確に区別することです。「怒る」とは、上司が自分の感情をコントロールできずに爆発させてしまう状態です。一方「叱る」は、感情を抑制しながら、「なぜ問題が起きたのか、どう改善すべきか」を冷静にフィードバックする行為です。
この違いは、一見些細なように思えるかもしれません。しかし、指導を受ける側は、それが「怒り」なのか「叱り」なのかを敏感に感じ取ります。感情的な怒りを受けた部下は萎縮し、次第に報告や相談を躊躇するようになります。対照的に、冷静な「叱り」を受けた部下は、「この上司は私の成長を考えてくれている」と理解し、前向きな行動につなげることができます。この違いは、その後の部下のモチベーションや組織への信頼感に大きな影響を与えるのです。
②信頼関係を築くコミュニケーション
2つ目は「信頼を築くコミュニケーション」です。部下が言ったことに対して「なるほど、そう考えたんだね」と受け止める姿勢があれば、人は安心して発言できます。どんなに忙しくても、部下の話を最後まで聞く努力が重要です。オープンな質問(「その点について、もっと教えてくれる?」)を活用すれば、部下は自分の考えを深めやすくなります。こうした対話を積み重ねることで、「この上司になら話せる」という安心感が生まれ、組織全体に活気が戻ってきます。
③明確な目標共有の重要性
3つ目は「共通目標の設定」です。心理的安全性を高めるには、組織全員が共通のゴールを認識していることが重要です。曖昧な目標ではなく、誰が見ても明確な方向性が示されていれば、人は「どう貢献しようか」と考えやすくなります。その過程で異なる意見が出ても、皆が同じゴールに向かっていることが分かっていれば、対立よりも「より良い手段を探そう」という建設的な対話になりやすいのです。
これら3つの力は、特別な才能がなくても身に付けられます。少しずつ意識して実践することで、リーダーはチームや組織に「言いやすい」「試しやすい」雰囲気を醸成できます。すぐに結果が出るわけではありませんが、日々の小さなやりとりが、やがて大きな変化をもたらすのです。
私が自衛隊で「叱る」文化を持つ上司や、米軍で「誰が言ったかより何を言ったか」を重視する教育方針に触れて感じたのは、リーダーの態度一つで組織の空気が大きく変わるということです。ビジネスでも同じように、トップが意見を歓迎し、部下の声を拾い上げれば、アイデアや改善策が湧き出る活発な組織になれます。
萎縮することなく、自由に意見を交わせる職場は、決して「なれ合い」になるわけではありません。むしろ、質の高い議論を重ねていくうちに、各メンバーが自分の役割を理解し、改善点を主体的に見つけられるようになります。結果として、困難な課題に直面しても、全員が力を合わせて乗り越えられる強い組織へと育っていくのです。
【終章】心理的安全性とAIが切り拓く新しい組織の姿
組織の強さを支える土台
これまで、自衛隊、米軍、そしてビジネスの現場で体験してきた「心理的安全性」の重要性についてお伝えしてきました。一見、厳格な規律が求められる軍事組織と、イノベーションが求められるビジネスの現場。全く異なるように見える二つの世界ですが、「人が萎縮せずに本来の力を発揮できる環境」の重要性は、どちらにおいても変わりありませんでした。
防衛大学校での苦しい鍛錬、米国陸軍士官学校での啓発的な体験、そしてビジネスの現場での実践まで―――これらの経験を通じて見えてきたのは、心理的安全性こそが、組織の強さを支える土台だということです。
AIが切り拓く可能性
そして今、私には一つの思いがあります。それは、この「心理的安全性」という課題に、最新のAI技術で取り組めないだろうか、ということです。
一見すると、人と人との間の信頼関係や組織文化の問題と、AIという最新技術は、まったく結びつかないように思えるかもしれません。しかし、両者には意外な接点があり、そこには大きな可能性が眠っています。
心理的安全性とAIは、どのように結びつき、どのような未来を切り拓くのか。この興味深いテーマについては、次回の記事で詳しくお伝えしていきたいと思います。
以上、長文となりましたが最後まで目を通していただきありがとうございました。
中小企業診断士 古谷 太陽(フルタニ タイヨウ)
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