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谷川俊太郎『二十億光年の孤独』を再読して

前に知り合いのアーティストの方と話している時、『二十億光年の孤独』について、こんな話になった。

彼曰く「あの詩は、”万有引力とはひき合う孤独の力である“までで終わっているべきで、その後は蛇足だと思う」

『二十億光年の孤独』とは、谷川俊太郎氏が19歳の時に書いた詩である。僕も大好きな詩だった。

確かに「万有引力とはひき合う孤独の力である」の言葉が強すぎて、これだけで成立しそうな気もする。ただどこか引っかかるところがあった。後半は本当に蛇足なんだろうか。

これはすぐにでも再読せねばと思い、家に帰ってから「自選 谷川俊太郎詩集」を引っ張り出して、この詩を読み返してみることにした。



二十億光年の孤独(全文)

二十億光年の孤独

人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
 
火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或はネリリし キリリし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それははまったくたしかなことだ

万有引力とは
ひき合う孤独の力である

宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う

宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である

二十億光の孤独に
僕は思わずくしゃみをした

自選 谷川俊太郎詩集 p.29『二十億光年の孤独』 



再読してまず思ったのは、僕はやはりこの詩が好きだ。宇宙というスケールの大きさと、孤独という身近なテーマがセットになっているのがいい。これを10代で書いているとは驚きだ。

万有引力とはひき合う孤独の力である

やはり強い。これを初めて読んだ時には、こんな凄い言い回しがあるのかと感嘆したものだ。試しにChatGPTに

「”万有引力とは“から始まる定義で、谷川俊太郎を凌駕する素晴らしい詩のアイデアを出して」

といくつか案を出してもらったが、プロンプトが下手なのも相まって、本家を超えるものは一つもなかった。もう圧倒的に谷川の勝ち。それはもう圧倒的に。

ちなみに出てきたのはこんな感じ。

1. 万有引力とは、見えない糸で結ばれた運命の力である。
2. 万有引力とは、失われた時を取り戻そうとする心の振動である。
3. 万有引力とは、互いを知らずしても感じる深い共鳴である。
4. 万有引力とは、絶え間ない思いの紡ぎである。
5. 万有引力とは、別れた後も残る温もりのようなものである。

ChatGPT

どこかパンチがない。谷川俊太郎バージョンがすっかり脳裏にこびり付いてしまっているのはフェアではないにしても、当たり障りがないというか、物足りない感じのする回答だ。

谷川と同世代の詩人で評論家の大岡信は、この詩を書いた時期の谷川についてこう評している。

社会の仕組みを知る前に、深く、天体の、あるいは宇宙の仕組みを感じとってしまった少年の、愁いを帯びつつ、しかし決して涙で曇ったりしてはいない、孤独でしかも明るいまなざし

谷川俊太郎『これが私の優しさです 谷川俊太郎詩集』集英社、1993年

そう。孤独を扱いながらもしみったれていない。この孤独観がこの詩に素朴で無造作な印象を与えている。

一人でいること。ハンナ・アーレントの孤独論

この詩を読み解くにあたって、まず「孤独」の定義について考えてみたい。

ドイツ生まれの哲学者ハンナ・アーレントは、「人間が一人である状態」について、「孤独(solitude)」と「孤立(loneliness)」と「孤絶(isolation)」の3種類があると述べている。

アーレント曰く、孤独(solitude)とは自分が自分自身と共にいることらしい。

ここに一般に想起されるようなネガティブなニュアンスはない。

自分自身と共にいることとは、自分の中で対話ができるということ。つまり、思考することそのもののことだ。存在は一人であっても、他者とのつながりは存在している。

このような状態について、アーレントは〈一人の中で二人になる〉という言い方をしている。一人でいながら、「理性的な自我」と「自分の身体で感じた世界」との二つを対話させることで、自分と共にあり、かつ他者や世界とも接触している理想的な状態。これを孤独と呼ぶそうだ。

対して、孤立(loneliness)とは他者との繋がりをうまく作れず、自分自身とも向き合えずに苦しむ状態のことをいう。

人は自分一人でいられなくなる時もある。自分一人の時間を恐怖に感じる人もいるだろう。他者との繋がりを求め、自分のそばにいてくれる人を探す。それが見つからない時に生まれる精神的な疎外感。これが孤立である。

孤独と孤立のわかりやすい違いは、孤独が一人でいることによって達成される状態であるのに対し、孤立は周りに人がいる時でさえも一人であることを感じさせられてしまうのが特徴だ。孤立は一人でいることへの恐れであり、それを寂しく思う自己の弱さの表れである。

三つ目の孤絶(isolation)とは、他者や世界から隔絶させられている社会的な状況を指す。物理的に切り離されているイメージ。

⚠️
ちなみに孤独・孤立・孤絶の訳と説明に関しては、訳書によって「孤立」と「孤絶」の定義が逆だったり、「孤立」が「寂しさ」とか「見捨てられていること」などと言い換えられていたりする。翻訳の際の表記揺れのせいで、ものすごくわかりづらくなってしまっているが、今回は上に挙げた定義を採用する。

まとめるとこんな感じ。

孤独(solitude):自分が自分とも世界とも繋がっていて〈一人の中に二人でいる〉ような理想的な状態。
孤立(loneliness):一人でいることに耐えきれずに他者を求めるが、繋がれずに苦しむ状態。
孤絶(isolation):世界から隔絶させられている社会的な状況。

ハンナ・アーレント『全体主義の起源』

ユダヤ人としてドイツに生まれたアーレントは、ナチズムから逃れてアメリカに亡命した後、この孤独論を1951年に発表した『全体主義の起源』のあとがきで論じた。

この本には、いかによるべのない個人が大衆と化し、わかりやすい陰謀論などの言説に盲目的に同調してしまうのかが書かれている。そしてホロコーストに代表される悪が、いかにふつうの人間によって為されたか。

その鍵となる概念は同質性。孤独でいられなくなった個人が、安心を手にするには、徹底的に無思想な大衆になることを進んで選ぶのである。

ナチズムに見られる全体主義的支配は、統治のためにまず社会的に人々を孤絶させ、連帯を無力化する。さらには精神的に孤立させることで、人々の健全な孤独を奪い、思考する自由を奪う。そして「ゲルマン民族」という人種的な優位性を説くことで彼らを束ね、ユダヤ人の大量虐殺を肯定する論理に大衆を扇動していった。これが歴史的な悲劇となる。

アーレントは孤独は孤立に転化する危険性があることを強調している。

二十億光年の孤独読解

話が横道に逸れたが、ここで言いたいのは、前提として孤独はネガティブな意味合いはなく、むしろ確固たる個人を確立するために必要不可欠だということだ。

アーレントの孤独論は、『二十億光年の孤独』を読む上でも役に立つ。孤独が孤立に転化する危険性の部分にも留意して、読み進めていく。

二十億光年の孤独

まずはタイトル。二十億光年というのは詩を書いた当時の谷川の認識での宇宙の直径。今は900億光年はあると言われているから、本当に宇宙はめちゃくちゃ膨張し続けている。

余談だが、近年の研究によれば宇宙の膨張は加速しているらしいから驚きである。加速しながらしながら膨張してるってことは・・?いや、想像するのはやめておこう。

人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする

火星に仲間という、言ってしまえば存在すらも確認できない他者を持ち出しているのが秀逸である。

存在すら定かでないという意味では、宇宙の末端の星の生命体も火星人も同じくらい彼らの生活は知り得ない。彼らが誰であろうと、生きていればおそらく「ときどき仲間を欲しがったり」するだろうと、全宇宙に存在するかもしれない他者を全て包含できている

同時に、火星は私たちの銀河系の中の惑星ではいわばお隣さんだ。人間は自分以外の存在が抱える孤独を知り得ない。あるいは内的世界を自分と同じようには知り得ない。当然、今隣にいる人のことだってわからない。この火星というモチーフの素晴らしいところは、そんな身近な他者の孤独に対する到達不可能性までもがここに含まれていることだ

火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或はネリリし キリリし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それははまったくたしかなことだ

「ネリリし キリリし ハララしているか」というのは、前の段落の人類の生活を表す3つの動詞「眠り起きそして働き」に対応している。火星人が使う架空の言葉を想定して、軽やかに詩に盛り込んでいる。そんな谷川のユーモラスな部分も好きだ。

そして、中盤。

万有引力とは
ひき合う孤独の力である

ここは重要なので詳細は後で述べることにする。万有引力という言葉を用いているので、前半で「僕」が「火星に仲間を欲しがったり」、「火星人が地球に仲間を欲しがったり」するその気持ちの移動が、星どうしの引力に例えられている。

さて、問題はここから先なのだが。後半は本当に蛇足なのだろうか。ひとまず進めてみよう。

宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う

「宇宙はひずんでいる」とはつまり、私たちの実存を取り巻く世界は安定していないと言うことだろうか。

「それ故みんなはもとめ合う」とは、アーレントの言葉を借りれば、孤独がともすれば、孤立にもなりうるということだろうか。だから、求め合い、団結して不安を掻き消そうとするのか。ここではその是非については問われていない。

宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である

宇宙が膨らむとどうなるのだろう。風船にペンで似顔絵を描いた時みたいに、星と星との間は離れていってしまうのだろうか。そうすると、それらの星に住まう人々の距離が離れていってしまうような気がするということだろうか。

宇宙に関して明るくないのでかなり適当なことを言っている。宇宙がどんどん膨張したら、地球と火星の距離が広がったりするのか?よくわからないが、ここはあくまでメタファーと捉えた時に、そんな気がするのかなという筆者の暫定的な感触に留めておこう。

なぜ僕は"くしゃみ"をしたのか

そして最後の部分。

二十億光の孤独に
僕は思わずくしゃみをした

この部分は、読んでいて驚く箇所だろう。宇宙という巨大なスケールの話から急に、くしゃみという卑近なワードに急に飛ぶことで、それまで広がっていた世界観を一気に現実に引き戻す効果がある。

同時に、昔から「噂話をされるとくしゃみがでる」とも言われるように、「僕」が「くしゃみをした」ということは、誰かが「僕」の噂話をしているということだ。言い換えれば、遠く火星の誰かも自分と同じく孤独を抱えていて、たまに不安になって隣の惑星に住む「僕」に思いを馳せているということを、自分のくしゃみによって知る。これが一般的な解釈なのではないかと思う。

「噂話をされる」ということは、この詩には明記されていないが、くしゃみから「誰かが自分のことを(考えて)話している」と想定するのは想像に難くない。そこは詩のジャンプ力というか、谷川の言葉繋ぎの妙ともいえる箇所である。

先ほども述べた通り、これは火星でなくても構わない。全宇宙の自分が知り得ない存在の全て(そこには隣にいる誰かでも、家族でも、恋人でも、友人でも含まれる)が、自分と同じように孤独を抱え、それが孤立に揺れ動く不安を感じているのかもしれない。その時、自分の中に強い孤独の力があれば、アーレントの言う〈一人の中に二人でいる〉ことが可能になる。その二人とは自分自分の身体が感知した自分の外の世界。つまり、20億光年に広がる宇宙全ての存在をも感知して、自分と接触した全てということになる。

それが一方的な自分の思い込みではなく、宇宙の側からも同様に自分の存在が感知されたことを示すのがくしゃみ。このくしゃみによって生まれた一種の共同体意識が、「僕」と宇宙を双方向に繋ぎ、各々の生命体のうちに内的な孤独と感知された世界の全てを同居させたミクロコスモスとマクロコスモスを描き出す。これだけでも、もうくしゃみのパートがいかに必要不可欠かを確認できた気がする。

くしゃみの別解釈

ただ、「万有引力とはひき合う孤独の力である」のパートに戻る前に、ここからは完全というかかなり自論なので、これこそが蛇足に思われるかもしれないが、一応思いついたので、もう一つ別の角度から“くしゃみ”について触れたいと思う。

くしゃみは反射的だ。くしゃみには二つの機能がある。一つは、体内に細菌やウイルス、アレルギー物質などの異物を取り込んだ時にそれらを吐き出す反射としての機能。二つめは、鼻腔内の体温が著しく下がった時に、体温を上げるための生理現象としての機能。寒い時にくしゃみをするのはこれ。

つまり、どちらの場合であれ、私たちは正常な自己機能を維持するためにくしゃみをする

そう考えた時にだ。谷川の詩のくしゃみはまた別の意味を持たないだろうか。つまり、私たちには正常な自己機能としての思考があって、自分自身と向き合うのに孤独を保つ必要がある。それが脅かされた時に、健全な孤独の状態に戻すための反射がくしゃみだということだ

体温が下がる時、ウイルスが侵入する時、無意識のうちに自己機能が損なわれていく。それは、知らぬ間に孤独が孤立に振れることに似ている。詩の中でも、「ときどき仲間を求めたりする」と書かれている通り、孤独という健全な思考状態は常に保たれるものではない

他者と生活する中で、十全な一人の時間が作れなくなったり、同じく健全な孤独を保てなくなった人どうしが心細さから、寂しさを埋め合わせるようにすり寄ったり。当然、現代社会でも転職や異動など、慣れない環境に移れば、一時的に社会から隔絶されたように感じるシチュエーションもあるだろう。そんな時ふと、孤立はいつの間にかそこに現れるのだ。それも"ときどき"。

孤立を拗らせるとつらい。大体の場合、自分が孤立している時は、他の人は孤立なんて感じていないかのような錯覚に陥るし、自分の実存までも疑い初めたりする。

「わたしはなんのために生まれてきたんだろう」的なモードだ。筆者の場合なら、それは大抵寝不足の時に。

だからこの詩では、「宇宙は歪んでいる」から「それ故みんなは不安である」までの間で、一時的に孤立に傾いた自己を、最後の段落ではくしゃみによって、正常な孤独に戻すのだ。

人が孤独と孤立を混同した時、不安に流されて世界に引っ張られ孤独が失われた時、健全な孤独でもって自己とも世界とも接触した〈一人の中に二人でいる〉両義的な状態を真っ直ぐ認識できなくなった時、このくしゃみは反射的に自己に働きかける。

たとえば、この詩の中で、くしゃみが健全な孤独に引き戻さなかったとしたら、どうなるだろうか。これで少しは説得力が増すのかもしれない。

健全な孤独を守るために

谷川は、万有引力がひき合う孤独の力だという。

原文の”ひき合う”が、「惹き合う(互いに対するベクトルで惹きつけ合う)」とも「引き合う(互いに反対のベクトルに引っ張り合う)」とも明示されていないのは、そのどちらともを意味するからなのだと思う。

もし、孤独を恐れて、互いが惹き合うだけなら、人類が住む玉(地球)は火星人が住む球(火星)と衝突してしまう。

だから、互いが孤独を保ちつつ、バランスを保つことで、両者が安定して宇宙を周回することができる。そのバランス状態に、くしゃみは引き戻す働きをするのではないかと思う。

なのだとしたら、ぼく(筆者)は、この詩を読んで、”引き合う“方の孤独、つまり「孤独という状態」を豊かに持つことの大切さを改めて思う。今の時代なにかと繋がりが過剰な世の中だからこそなのかもしれない。大切さとか言うと、なんだか読書感想文みたいな稚拙な言い回しだが、だって「孤独という状態」がなければ、”惹き”合うことすらできない。そうなれば私たちの宇宙は壊れてしまうことになるのだから。

さらに言えば、自分が知る由もない誰かも孤独を感じ、互いに求め合っているという感覚を共有しているという時点で、もうそれは孤独ではない。互いに孤独であることを通じて、互いが孤独ではないということを知るのだと思う。

とまぁ、長々と谷川俊太郎の詩について書いてみたが、当の本人もこんなところでぼくがキルル ハララしながら、彼が19歳の時に書いた詩のことをあれこれ語ってるとは知る由もないだろう。

今頃どこかでくしゃみしているかもしれない。ただでさえこの花粉の季節に申し訳ない。谷川さん素敵な詩を書いてくれてありがとう。お身体には気をつけて。

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勝俣 泰斗
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