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なぜ皆ライカが欲しくなるのか?
AIと対話しながらカメラを哲学するシリーズ、その2。
今回はカメラの王者(とバルトは言っていた)的存在である皆の憧れ(?)、もしくは唾棄すべき存在(?)のライカさんです。
混迷を極める世界で、2024年には過去最高益を叩き出したライカ。なぜ人はライカを求めるのか、ライカという「幻想」に内包されているものは何なのか。ライカを買って終わりだと思ったら、その先にあったものは何だったのか、、という辺りがテーマです。
ちなみにワタシは現在SL3、Q3、M10-Dと三台のライカボディを所有する立場から書いています。一応はライカ教信徒です。
1:なぜ多くの人がライカに憧れるのか
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「ライカ(ボディ、レンズ含む)で撮ると描写が違う」
「立体感が違う、黒の階調が違う、ボケ味の美しさが違う」
といった言説は、眉唾です←いきなりだなオイ。
わかる、わかるよ。使っている立場から言えば、ライカで撮る写真とニコンで撮る写真は違う。それぞれライカらしいし、ニコンらしい。レンズ描写の特徴もあるでしょう。
しかし、
いろいろなカメラで撮った写真を混ぜた時に、「ライカで撮った写真」だけを選ぶことは、どんなプロカメラマン、もしくはライカマニアにもできない。
つまり、結果としての写真はその程度の違いなんです。なので「ライカだから撮れる写真というものはない」ということを、まず前提とします。
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だとしても、「ライカの神話」は微塵も揺るがない。
なぜか?
欲望の構造としての『ライカ』をジピー(GPT)はこう言います。
欲望の構造としてのライカ(ジャック・ラカン的分析)
ライカをめぐる欲望は、ラカンが言う「他者の欲望の欲望」によって駆動されているように見えます。「ライカを所有することが写真家としての高みを示す」という社会的な幻想が、ライカを持たない者に「ライカを手にしなければならない」という欠如感を抱かせます。
ライカの所有は、象徴的に「写真家としての完成」に近づく行為と見なされる。つまり、ライカは「対象a(objet petit a)」のように、所有することで満たされると思われるが、いざ手に入れると新たな欲望が生まれ、完全な満足には至らない。
だからこそ、ライカを持たない者は「ライカさえあれば…」と幻想を抱き、ライカを持つ者は「本当のライカ体験はまだこれからだ」と更なるレンズやカメラを求めるのです。
つまり、
「ライカは特別だ(確かに値段も特別)」
「ライカで撮ると何か違う」
「ライカを所有することが、写真家としての高みを示す」
という「社会的幻想」を皆が共有しているから、ライカが特別なんです。
「ライカを所有することで特別な体験ができる」と皆が信じている限り、ライカは特別であり続けると。ブランドイメージってそういうものですが、、。
結果、ライカに憧れる人は「自分もライカさえあれば、、」とライカを買うことでしか満たされない幻想を抱き、ついにはライカを手に入れるわけですが、実はそれは次なる渇望、新たなる欲望の入り口にしか過ぎません。
2:ライカを買っても満たされないものとは何か
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「ライカ」をハッセルとか、ローライとか、GFXに読み替えても同じことです。
憧れのカメラを手に入れて、しばらくは満足できるかもしれませんが、次に考えるのはおそらくレンズでしょう。
ちなみにアホな自分はボディを買う前に、アポズミクロン M50mm f2というライカのレンズを買っていました。とりあえず究極の写り、技術の粋を集めたレンズと呼ばれるものを買っておけば、レンズ沼とも縁がないだろうと思ったからです。
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しかし皆さんもご存知のとおり、そんなことでレンズ沼から逃げられるわけではありません。当然「ズミルックスだったら、、八枚玉だったら、、ノクティルクスだったら、、」と、欲望(欠乏)は形を変えて続きます。
ジピーはそれについて、ラカンを引き合いに出してこう言っています。
ラカンの欲望の理論に基づけば、ライカを手に入れても満たされないのは、欲望の本質が「欠如の充填」ではなく「欲望の持続」だからです。
欲望の本質が「欲望の持続」とはどういうことでしょう?
それは欲望を満たす(ように思える)モノを手に入れても、それがまた新しい欲望を生み出すということです。
ライカも同様で、「ライカさえ手に入れれば、自分の写真は特別になる」と思っていても、実際に手に入れると「本当にこれが特別なのか?」と疑問が湧いたり、「もっと良いレンズがあるのでは?」という新たな不足感が生まれたりします。
そうなんよ、レンズ探しはキリがないんよ、、。
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ラカンの「欲望は他者の欲望である」という言葉に従えば、私たちは「他者が欲しがるものを欲する」傾向があります。ライカが特別だとされるのは、写真家や評論家、ブランドの歴史が「ライカは特別だ」と語り続けているからです。
ライカを手に入れたとき、一瞬「他者の欲望の対象を手に入れた」という満足感を得ますが、すぐに「本当にこれでいいのか?」という問いが生まれます。他者の欲望は固定されず流動的だからです。あるいは、新たな「より良いもの」への憧れが生まれます(たとえば「M型だけではなく、ズミルックスが必要なのでは?」など)。
ですよねー。
M型だけではなく、フィルムカメラもGFXもハッセルデジタル中判も必要な気がしてます、はい。
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ラカンは「欲望はメトニミーである」とも言いました。メトニミーとは「あるものが別のものを指し示す」関係のことです。つまり、ライカを欲すること自体が、実は別の何か(たとえば「写真家としての完成」「唯一無二の表現力」)を象徴しているのですが、その「完成」や「唯一無二」は実体のないものであり、常に別の対象へと置き換えられていきます。
ライカを手に入れても、今度は「本当にこれで表現が変わったのか?」と疑問が湧き、「もっと良いレンズが必要だ」「結局、自分の感性が足りないのでは?」という新たな欲望が発生します。
このように、ライカを手に入れても欲望が終わらないのは、欲望は決して最終的な満足を目指すものではなく、むしろ欠如を持続させることで存在し続けるからです。
つまり、ライカを手に入れても、それは「最終目的地」ではなく、新たな欲望の出発点に過ぎないのです。
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3:ライカを手に入れて幸せな人、満たされる人
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ライカを手に入れることは「最終目的地」ではなく、新たな欲望の出発点とジピーは言いますが、そうでしょうか?
自分の周りにはライカを手に入れて、たしかにレンズ探しには余念がないものの、ひとまず幸せに、満たされて暮らしている(ように見える)人がたくさんいるように思います。そういうこともあるんじゃないの?どうなの?
確かに、「ライカを手に入れたことで満足し、これからこのカメラと人生を歩んでいこう」という境地に達する人もいるでしょう。しかし、ラカンの理論に従うならば、その満足は本当の「欲望の終着点」ではなく、むしろ「欲望の変容」や「幻想の維持」として理解できます。
たとえば、ライカを手に入れて「よかった」と感じたとしても、次第に「このカメラの持つ世界をもっと深く知りたい」「自分はこのカメラを本当に使いこなせているのか?」という問いが生まれ、新たな探求へと向かう可能性が高い。
つまり、ライカはもはや「欠如を埋めるためのもの」ではなく、「自分を深めるための相棒」として機能し始める。この場合、欲望は単なる「所有の欲望」から「存在の欲望」へとシフトすると言えるでしょう。
もし「ライカを手に入れたことで完全に満足し、それ以上何も求めない」としたら、それは幻想が完璧に機能している状態とも言えます。
つまり、ライカを手に入れたことで「写真家としての完成」に近づいたという物語を自分の中で確立できた場合、その人にとってライカはもはや「欠如を埋める対象」ではなく、「自己のアイデンティティの一部」として統合されるのです。
しかし、それでも「写真表現をもっと極めたい」「このカメラで何を撮るべきか?」という新たな問いが生まれる可能性が高い。こうして欲望の対象は変化しながら持続します。
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ジピーは「欲望は形を変えて続く」という論を譲りません。たしかにカメラに満足したとしても、今度は「写真表現を極めたい」とか、カメラが次なる欲望(もはや目標)へと私たちを導いていきます。
そしてここで、「所有の欲望」から「存在の欲望」へシフトする、という重要な表現が出てきました。
あのカメラが欲しい!このレンズが欲しい!というのが「所有の欲望」ですが、「存在の欲望」とは何でしょうか?
もはや「ライカ」から主題は「人間としての欲望」へと変わりつつありますが、ここからの対話が非常に面白かったので、このまま続けます。今回参照するのはずっとジャック・ラカンです。では、レッツ欲望!
4:所有ではなく、「存在の欲望」とは何か?
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「存在の欲望」とは、単にモノを所有することで満たされるのではなく、「自分が何者であるか」「どう生きるか」という問いと結びついた欲望を指します。
ラカンは、人間の欲望が「他者の欲望」によって決まると述べました。つまり、私たちは「他者が欲しがるもの」を欲することで、自分のアイデンティティを形作っていきます。
しかし、単なる「所有の欲望(欲しいから買う)」を超えて、「所有することによってどんな自分になれるのか?」という問いへと移行するとき、欲望は「存在の欲望」へとシフトします。
モノを所有することで満たされるのではなく、「自分がどう生きるか」という問いと結びついた欲望、、。
具体的にはどういうことでしょう?
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ライカを例にした「所有の欲望」から「存在の欲望」への移行
所有の欲望段階
「ライカを持てば、写真が良くなるはずだ」
「ライカを持つことが写真家としての証だ」
→ 実際に購入するが、「もっと良いレンズが必要なのでは?」と次の欲望が生まれる
存在の欲望段階
「ライカを使い続けることで、自分の視点や撮影体験を深めたい」
「ライカと共に生きることで、写真を撮ること自体の意味を問い直したい」
→ ライカを持つこと自体が目的ではなく、ライカを通じて自分の存在を探求することが目的になる
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所有の欲望から始まり、いつしか「カメラを通じて、自分の存在や生きるということを学び、問い続けたい」となることが「存在の欲望」段階だと。
えーー、めっちゃ健全じゃないですか(笑)。
ライカの存在を問い始めたら、人生に向き合う姿勢を教えられることになりそうです。
最後に「終わらない欲望との付き合い方」をまとめて、結論としたいと思います。
5:結論:あなたが欲しい答えはどこにあるのか?
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「所有の欲望」から「存在の欲望」へ。
形を変えこそすれ、決して終わらない欲望とどう付き合っていけばいいのか(←もうライカ関係ないじゃん)。
最後までジャック・ラカンですが、ジピーは「欲望」から「欲動」へというキーワードを出してきました。
「欲望」ではなく「欲動(ドライブ)」として生きる
ラカンは、欲望(désir)と欲動(pulsion)を区別しています。
欲望は、常に「手に入らないもの(対象a)」を追い続けるため、不足感が生じる。
欲動は、欠如を前提とせず、プロセスそのものに喜びを見出す。
たとえば、
「ライカを持つことで満たされるはずだ」というのは欲望の構造に囚われている状態。
「ライカを使い続けること、写真を撮ることそのものが楽しい」というのは欲動として生きている状態。
つまり、「次の何かを得れば満たされる」という思考から抜け出し、すでに自分が行っている行為そのものを楽しむことが、欲望の苦しみから解放される道のひとつです。
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これ、いわゆるラカン哲学の「欲動」とはちょっと言葉の意味が違うように思います(詳しい人、教えてください)。ジピーはしょっちゅう怪しいので。「欲動」は「行動」と読み替えてください。
とはいえ、万事に通じることを言ってるなと思うのですが、いかがでしょうか。
「カメラが欲しい、レンズが欲しい」という思いに囚われるのではなく、「今、写真を撮ることのプロセスそのものを楽しむ」。
これ、当たり前のようでなかなかできません。ちょっと意味合いが変わりますが、「良いカメラ、良いレンズを買えば良い写真が撮れる」っていう考え方は「インスタントな答えを欲している状態」だと思うんですよね、「結論を早く知りたい気持ち」と言い換えてもいい。
良いカメラ良いレンズさえあれば良いんじゃなくて、自分にとって良い写真とは何だろうと問い続けることだけが大事なんですよ。
で、そういう問いってすぐに答えが出ないから、「良いカメラがあれば、良い写真が撮れる!」って思った方が「楽」じゃないですか。だからすぐモノに頼りたくなっちゃう。
それじゃダメなんだよな、と対話を通じて改めて思えました。ありがとうジピー。
というわけで、今日の旅はこの辺で。
皆さん、素敵なライカライフをお送りくださいっ!←ちがう。