見出し画像

【エッセイ】右脳さんぽ(PART1)

24年の年末から25年の年始にかけて、約1カ月半の期間、東京と故郷五島で「探求」活動を行っていました。その記録をエッセイという形でまとめたので、少しずつ紹介します。

元々、このエッセイは、影山知明氏の『大きなシステムと小さなファンタジー』の以下の文章を読んだことをきっかけに書こうと思いました。

一つ提案があります。
ぼくはこの本を十章まで書きました。その続きを、第十一章を、それぞれに書いてみてもらえないでしょうか。この本の主語は、ぼくです。ぼくはこんな風にやってきたし、こんな風にやっていこうと思いますという、僕なりの所信表明がこの本です。それを受けて、今度はあなたが、主語を「私は」にして、その先を書いてみてもらえないかと思うのです。
(中略)
あなたにとっての読んでもらいたい人、あなたが一番、よろこんでもらいたいと思う人に向けて、その文章を書いてもらうといいと思うのです。そうして紡がれる物語は、いつか大きな樹形となって、たくさんのいのちを慰め、励ますことになるでしょうから。

『大きなシステムと小さなファンタジー』(影山知明、クルミド出版、2024年)

試作としての位置付けですが、このエッセイは、10部だけ製本しました。
まずは、家族とこの期間に対話した数人の友人に贈るものとして。

50ページ程の小さな本ではありますが、少しずつnoteで公開しつつ、手直しを行い、1冊の本としてまとめたいと思います(出版する予定はないですが笑)

今回は、「プロローグ」と、第一章「歩く」の中から「セレンディピティ」の文章をご紹介します。

本書の「エピローグ」に詳しく記載しているのですが、私の「感想」でしかない文章を出すことの意味は何なのか?書きながらそう自問自答していました。

それは、私とあなたの「対話」だと考えてます。
何か新しい知識を伝えるものではありません。私の感じ想ったことを触媒に、読んでくださった方の中に、ささやかでも問いや、思考、感情を生み出せたら、それだけで意味があると感じています。

是非、お読みいただけますと幸いです。

『右脳さんぽ(試作版)』目次

プロローグ さんぽの前に

前もって予定を立てない。その日の朝に今日一日やりたいと思ったことをメモ帳に記載する。今日の予定も詰めすぎない。空白も残す。一日を過ごしながら、何となく別の心惹かれるものがあれば、その心に従って別の方向に歩いてみる。そして、一日の終わりに、今日やったこと、心が動いたことを記録する。そんな生活を続けて、約一カ月半。

普段は、常に次の段取りが頭にある。

仕事用のパソコンの右端に付箋のアプリを立ち上げ、十五分刻みで実施すべきタスクを記載する。緊急度の高いものは上に、低いものは下に。今すぐに実施しなくてもよいものはペンディングのフラグを付けて寝かせる。終わったら消し、またタスクが生まれたら記載し、終わったら消し、を続ける。

こうして、月曜から金曜まで十五分刻みのスケジュールでパソコンに向き合い続ける。
一週間のスケジュールはテトリスのように組まれている。
頻繁に差し込みがあり、その都度、予定を組み換える。優先順位が低いものは、来週にリスケジュールできないか調整をかける。そしてまた、来週のテトリスが完成する。

金曜日の十八時。「急ぎではないので」と書かれた依頼メール。
月曜日の朝一には出てくるだろうという暗黙の期待を感じ取る。自分自身でコントロールしているようで、コントロールされている日々。

このエッセイは、そうした日常から少し距離を置き、自身の心や感性に従って歩みを進める試行(=右脳さんぽ)に取り組んだ記録である。

この試行の期間は、半分を今の住まいのある東京で、半分を高校まで十八年間暮らした故郷五島で過ごした。主に五島の期間が中心になるが、この期間の思索の記録として残す。

※私の試行について友人と会話した際に出てきた「右脳さんぽ」というキーワードがしっくりきたので本書独自の用語として定義して使っている


一. 歩く

セレンディピティ

五島滞在中の散歩の途中で何度か訪れたカフェに、『偶然の散歩』という本が置いてあった。カフェに並ぶ本棚を眺めていた時に、店主から教えていただいた本だ。
私と近い世代の数学者が書いた「さんぽ」に関するエッセイ。二度目にカフェを訪れた際に購入し(カフェの中で本も買うことができた)、コーヒーを片手にその場で読んでみた。

同じ散歩は二度とない。僕はこのことを、いつも肝に銘じる

『偶然の散歩』(森田真生、ミシマ社、2022年)

この一節に触れた時、この日までの散歩の記憶が呼び起こされた。
たとえ同じコースを散歩していたとしても、同じ風景はない。散歩をしながら思考している自分自身も、決して毎日同じではない。

この本にも、その日、お店に行っていなければ、店主に出会っていなければ、本棚の前でふと立ち止まらなければ、出会っていない。

偶然に価値あるものに出会うことを「セレンディピティ」というが、散歩をしているとそうした出会いが多い。

ちなみに「セレンディピティ」は、『セレンディップの三人の王子たち』というペルシャのおとぎ話にインスピレーションを受けたイギリスの作家ホリス・ウォルポールによって、生み出された言葉である。

おとぎ話のあらすじはこうだ。 セレンディップ(スリランカの古い名称)に住む三人の王子たちが、国王の命で、外国の風習やしきたりを学ぶため旅に出た。旅の途中、ベーラム(現在のイランあたり)で一頭のラクダを見失った一団に出会った。王子たちはそのラクダを直接見たわけではなかったが、旅路で目にしたあらゆる痕跡を思い出し、その痕跡からラクダの特徴を推論し、そのどれもが特徴を正しく言い当てていた。ベーラム国の皇帝からその能力を認められ、重用され、皇帝の命をも救い、最終的にはセレンディップに戻って、それぞれ別の国王として国を治めたという物語である。

同書の訳者である竹内慶夫氏は、解説の中で次のように記している。

この手紙のなかに、「セレンディピティ」を明確に定義づける三つの重要な要素を見出すことができます。それは、(一)偶然と(二)才気によって(三)さがしていないものを発見すること、です。ここに、セレンディピティということばの意味を考える原点があります。

セレンディピティ的発見の鍵は、偶然を生かすことができるかどうかで、それは実験や観察をする人たちの心がまえしだいです。なにごとかに集中する意識があって、周囲のできごとを注意深く観察し、それに瞬間的に無心に反応する心がつねにそなわっていることが必要です。

『セレンディップと三人の王子たち』(竹内慶夫編訳、偕成社、2006年)

「セレンディピティ」とは、単なる偶然の産物や、運命の導きではなく、歩みの中で出会うものに「気づく」こと。一つ一つの気づきを心に留めて、つなぎ合わせることで、必然的に価値あるものに出会う。この気づく能力とつなぎ合わせる能力がセレンディピティに必要な「才気」である、と思う。

東京での散歩の途中、とあるラーメン屋に入った。そこで流れるラジオで「森岡書店」という書店の話をしているのが聴こえてきた。「森岡書店」は、以前参加したイベントで登壇されていた方が紹介していた「ただ一冊だけを置く本屋」である。一度行ってみたいと考えていたことを思い出し、後日訪問した。
その日はたまたま、本ではなく、様々な金属の糸を使って本を模した造形を生み出すアーティストの作品展示であった。
しばらく作品を眺めていると、作者がやってきた。小さな空間の中で、作者とその場にいた数名とで自然に「対話」が始まった。「世界とは何か?世界とは四方を囲われた箱ではないか?世界ということを考えるから世界が生まれるのではないか?」と。
対話の空間づくりとしてヒントになるものがないだろうか、そんなことを考えながらその場の対話に耳を傾けた。

普段どれだけ「気づく」ことができているだろうか。いつもは食事しながらも、タスクや次の段取りのことを考えているので、ラジオの音は耳に入っていない。

タスクが頭の中にない状態、次の段取りを考えていない状態、そんな時間だからこそ「瞬間的に無心に反応する心」を持つことができる。セレンディピティに出会うことができる。

(次回)「歩くことの価値」

いいなと思ったら応援しよう!