日本の民主主義が消え去ったのは、当然の話で。。そもそも民主主義など教育してないしね。


より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・・

ルールに縛られすぎる人に知ってほしい考え方 民主主義は何の為にあり、どう成長させていくか

勉強、学び、受験、学校、社会、人間関係……。
先の見えない時代、そして正解のない時代を、若者はどう生きていくべきか。そして親は、子どもをどう見守っていくべきか。
今ほど「少年期の人生戦略」が求められている時代はありません。
校長として40年間時代の先頭に立ち、子どもたちが自由に生きていくための学校改革を行ってきたカリスマ校長・工藤勇一氏が、初めて子どもたちに向けて書いた人生戦略の書『考える。動く。自由になる。』から一部抜粋、再構成してお届けします。

民主主義の「しくみ」

君も、民主主義という言葉を習ったことがあると思います。

でも、「民主主義ってどんなしくみか、かんたんに教えて」と言われたら、「うーん」と考えこんでしまうのではないかな。

僕も、「うまい説明はないものか……」と長い間、言葉を探してきました。

現時点での僕なりの民主主義の定義は、こうです。

「民主主義とは、可能なかぎり個々人の自由を尊重しながら、すべての人々の幸せを実現するという、かんたんには両立できない答えを全員の対話を通して探し出し、合意し実現していくこと」

まだ、あんまりピンとこないかもしれません。

もう少し、説明を続けます。

民主主義の考え方の原則をすごくざっくり言うと、「一人ひとりが、みんな自由に生きられる社会」ということです。

でも当然ですが、みんなが自由のままに生きれば、さまざまなトラブルや対立が起こることは誰でも予想できますよね。

極端に言えば、「自分の安全や生命を脅かされる」ことにもなります。

たとえば、君がクラスメイトの態度にいら立って、「頭にきたから、あいつを殴ってやりたい」と思ったとしましょう。

「誰かを殴りたい」と思う自由があるなら、逆に「誰からも殴られたくない」と思う自由もあります。この2つの自由は必ずぶつかります。

もし、「ムカつく奴がいたら誰でも殴っていい」「力を使うのは自由」ということを社会のルールにしてしまったら、力の強い人が勝つ世の中になりますよね。すると、誰もが「力の強い人になりたい」と思い始めるはずです。

ただ、どんなに強くなったとしても、「もっと強いヤツがいるかもしれない」「自分もいつかやられるかもしれない」という不安はなくなりません。また、人間は必ず老いますし、体調の悪いときや、怪我をして思うように動けなくなるときだってあります。

想像してもらえばわかりますが、強さだけを追い求める社会では、子どもや女性はもちろん、どんなに強い人間でさえも結局は誰も安心できず、落ち着いて暮らしていけません。

だから、民主主義は、「ある一定の条件つきで」みんな自由に生きていい、という前提の上に成り立っているのです。

「誰かを殴りたい」と心の中で思う自由は許しても、実際に殴っていいという自由を認めてしまったら、結局はみんなにとって不安でいっぱいの世の中になってしまう。

つまり、みんなが同じ社会で生きる以上、相手の生命や安全を脅かす自由をそのままにしておいては、誰もが困る可能性があるわけです。

だとすれば、「みんながOK」になるのは、被害を受ける人間が一人も出ない状態ですよね。それを実現するためには、原則として「人を殴ってはいけない」というルールを定めればいいことになります。

そして、ルールを破った場合の罰則を定めることで、たとえ「殴りたい」と思っても我慢できる抑止力にしようということになるわけです。

このような考え方を形にしたのが、僕たちの社会にある「法律」なのです。

まとめると、この社会で作られた法律は「人間どうしが自由に生きることで起きる対立を調整するためにつくられたしくみ」と言うことができます。

つまり、民主主義は、自分の自由を尊重しながら、他人の自由を侵害しない方向で自由な社会をつくっていくための「しくみ」でもあるのです。

「赤信号で立ち止まる」って、どの国でも同じだと思ってない?

ここで君に、2つの質問をしたいと思います。

1つめの質問です。

「放課後、君は近所のコンビニに向かいました。コンビニの前には横断歩道があります。信号は赤。右を見ても左を見ても、クルマもバイクも自転車も人も、通る気配はありません。君は赤信号を無視して、横断歩道を渡りますか?」

もちろん、赤信号を無視して横断するのは法律違反です。

道路交通法第7条には、「道路を通行する歩行者または車両等は、信号機の表示する信号または警察官等の手信号等に従わなければならない」と書かれています。

日本で信号無視をすれば、歩行者であっても、最大2万円の罰金に処される可能性があります。

ところが、海外に行くと事情は一変します。

ベトナムやタイでは、信号や横断歩道がなくても、バイクや車がどんどん来ていても、その合い間をぬってずんずん渡っていきますし、フランスでは自分の目で見て安全を確認したら、信号が赤でも渡るのが普通です。

実際、英国王立協会の科学誌『ロイヤルソサエティー・オープンサイエンス』に発表された論文によると、「フランスでは、歩行者が10回に4回の割合で信号無視をして横断歩道を渡り、日本では100回に2回の割合だった」(フランスのストラスブール大学の研究チームが、ストラスブールの3か所、名古屋の4か所の横断歩道で調査)と報告されています。

フランス人の多くは、こう考えるようです。

・車が通らないのに信号を待つ必要はない

・そもそも道路は歩行者優先

・ルールや規則は、秩序を保つために必要。でも本来、人間の生活をスムーズにするためにルールがあるのであって、ルールを守るために人間が存在しているわけじゃない

法律上の取り決めとして、信号無視はフランスでも違反になります。ただ、本当に取り締まりが行われることはほとんどなく、「左右を見て、安全なら、本人の責任で気をつけて渡ってOK」というのが暗黙の了解になっています。

これは、「法律は人間が作ったものだと知ったうえで、それをどう解釈するかは当事者である自分が決めること」と考えているからです。

ルールが疑問なら変えられる社会システムに

一方、日本では「法律は『お上』が決めたもの」「破って面倒が起きたらイヤ」「まわりの人は守っているのに自分だけ守らないのは恥ずかしい」という感覚で、車も何も通らない赤信号が青に変わるのをおとなしく待ちます。

フランス人からすると、真夜中の赤信号で立ち止まっている人がいる風景は奇妙に映るかもしれません。なぜなら、フランス人には「人間が自分たちの生活をよくするために法律を作ったんだ」という自覚があるからです。

法律は人間のためにあるわけですから、本来、危険がなければ自分の判断で渡ってもよいという法律をつくっても問題ないはずです。

しかし日本では、自己判断を許してしまったら、法律を守らない人間がたくさん出て、大きな事故につながる可能性があると考えます。

だから、目の前の状況で判断することよりも「赤信号は必ず止まる」というルールを優先したのです。

これは、日本とフランスどちらが正しいという話ではありません。

僕が1つめの質問で伝えたいのは、「どちらがいいかは、国任せにするのではなく、自分たちで話し合って決めるべきだ」ということです。

もしそのルール(法律)を疑問に思うなら、それをみんなで変えられる社会システムにしていくことも大切です。

「赤信号は止まれ」のほかにも、日常生活の中で「これって、どう決めるべきなんだろう?」と感じるルールはいくつもあります。

そこで、2つめの質問です。

「法律がいまの時代や状況に合っていないと感じたとき、変えていくためには、誰が声を上げればいいと思いますか?」

社会の授業で習ったと思いますが、日本は「三権分立」です。

三権分立とは、国の権力を立法権、行政権、司法権の3つに分けるしくみのこと。

なぜ3つに分けるかというと、国の権力が一つの機関に集中すると暴走するおそれがあるからです。3つの権力が互いに監視し合い、バランスを取ることで権力のかたよりを防ぎ、国民の権利と自由を保障しようとする考え方です。

・国会には、法律を作ったり、変えたり、廃止したりする「立法権」がある

・内閣には、国会が決めた法律や予算にもとづいて実際の行政を行う「行政権」がある

・裁判所には、人々の争いごとや犯罪を憲法や法律にもとづいて裁く「司法権」がある

国会にいる国会議員は、選挙によって選ばれた国民の代表です。その国会議員が法律をつくっていくわけですから、国民が「この法律はおかしい」と声を上げれば、法律を変えていくことができます。

つまり、「これはいまの社会に合っていないかも?」と思うルールがあったら、「当事者」として声を上げることがルールを変えるための第一歩なのです。

ルールを守るために人間が存在しているわけじゃない

でも、日本では「法律は自分たちで作るもの」そして「法律は変えられるもの」という当事者意識を忘れてしまっている大人が増えています。もしかすると、始めからその意識自体を持っていない人が大半かもしれません。

たとえば、当時伝染力の強い感染症と誤解されていたハンセン病の患者を強制的に隔離することを1931年に定めた「癩(らい)予防法」が廃止されたのは1996年ですし、アイヌの人たちを(差別的に)保護する名目で、1899年に成立した「北海道旧土人保護法」が廃止されたのは、なんと100年近くあとの1997年です。

フランス人は自分たちで革命を起こし、王様から民主主義を勝ち取った歴史があります。だから、フランス人の多くはこう考えるのかもしれません。

「ルールや規則は、秩序を保つために必要。でも、人間の生活をスムーズにするためにルールがあるわけで、ルールを守るために人間が存在しているわけじゃない」

「このルールが変だ」と考えるのは自由ですし、むしろそう考えることは社会を進歩させるためには大切なことです。しかし、「このルールは変だから破ってしまえ」と考えると、民主主義は成り立ちません。

理由はわかりますよね。社会が無秩序になってしまうからです。

残念ながら、僕たち日本の大人はまだまだ「対話によって利害関係を調整していくこと」がうまくできません。

それは、いまの大人たちが子どものころに対話のトレーニングをする機会がほとんどなかったからだと僕は思います。

社会全体でこうした対話がうまくなっていくためには、もっと幼いころから、自分がいる身近な社会に当事者として直接的に関わり、互いの自由の対立を解決していく経験が必要です。

その経験を積む最適な場所が、僕が考える「学校」です。

民主主義は是認の試行錯誤によってこそ成長していく

「ヘンなルールだけど、ルールだから守っておこう」

「納得できないルールだから、破ってしまおう」

そう考えてしまうのは、民主主義をよくわかっていない証拠です。

僕はこのモヤモヤを解決するカギは、「世の中のさまざまなしくみを知ること」にあると考えています。

学校で「法律は自分たちで変えられる」というしくみを学び、実際に変わった例を知り、当事者意識を持てるようになれば、社会は必ず変わっていきます。

問題は、「そのルールを誰が作っているか」ということ。

ルールを当事者である自分たちが作るのか、ほかの誰かに作ってもらうのか。

もちろん、君たち生徒が自分たちでルールを作っていくのが望ましい学校のありかたです。そのための対話による試行錯誤で、一人ひとりの当事者意識が磨かれていくからです。

民主主義は、全員の試行錯誤によってこそ成長していくものです。

軍国主義のころの日本は、その試行錯誤が許されない時代でした。そんな時代に戻ってしまわないためにも、学校はもっとも大切な場所です。

その考えを知った君たちが、次の世代の子どもたちに考え方を伝えていく。この繰り返しによって、平和で民主的な誰一人置き去りにしない社会が作られていくのです。

「ずいぶんのんびりした話だなあ」と感じるかもしれませんが、これこそが最短の方法なのだと僕は思います。

・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり

まあ「ルール」のそもそもの「理由」がわからんのに、それを守る理由は、まずない。

ルールはルールなら、憲法など無意味ですはね。ルールに上位のルールがあってそれを規定している・・て無いから「ルールはルール」だからね。


上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・

サッカー元日本代表の本田圭佑がツイッターで日本の学校教育について意見を述べ、ネットユーザーの共感を呼んでいる。

本田は7日、

「そもそも日本の教育には無理がある。小学校、中学校、高校と基本的に右向け右でやってて、大学から個性とか強みを磨けとか個々を求めても普通に考えたら厳しい」

とツイート。

翌8日にも「社会に出るまでは、新しいことに挑戦すると評価される。社会に出るようになると、新しいことは弱みであり余計なことをするなと言われる」

とつづった。

これらの投稿に反響が続々と寄せられ、ネットユーザーからは「本当にそのとおりですね」「ガチこれ」「共感しかない」などの声。「そうなんだよな…子育てしてて、ホントそれを思ってる」「おかげで大人になっていろいろ苦労してるよ」「高校までは教科書の勉強しておけば良かったのが大学になって通用しなくて辛かった」といった実感を込めた書き込みも少なくなかった。

ほかにも「そして企業に入ると右向け右」「大学受験以前と以後でルールが変わりすぎるんよね」「そういう部分を磨ける学校外のコミュニティって大切だと思うんですよね」「海外と比べて受講型の授業が多くて生徒が受け身なのは事実だと思う」などと意見が交わされている。

・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

まあ、本田のこの指摘は全く正しい。

高校時代までは、校則・体罰等で、人間の権利をはく奪し続ける。
いじめも黙認して、まっとうな刑事訴訟の権利やその事実を奪い続ける。

生まれて12年間、人間としての権利をはく奪されながら、18歳から「お前ら人間です。権利も義務もあります」って言われても、予行演習すらないので、無理な話です。

自己を守ることすらさせない教育で、民主主義や人権をはく奪する政治で、さらに「天皇」の責任逃れのために、国家は失政の責任を認めない。

まあ、これで「民主国家」て、どこの馬鹿だろう・・て

それを信じているのが、1億人ほどいるのが、日本列島なのです。

より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・・

皆さんは
国家とは何か?国民とは何か?
それについて考えた事がありますでしょうか?

国家観を考えた事もないのであれば
今行われている
ロシアとウクライナの
戦争の本質がまるで理解できない事でしょう。

あなたは日本という場所に住んでるただの人ですか?
あなたは日本という場所に住んでる日本人ですか?

この言葉の違いお判りでしょうか?

国家観を語るには、まず人間観、
人間の本性について知らなけばなりません。

西洋では、プラトンを始め様々な
哲学者が国家観を語っていました。

国家とは何か?

国民・領土・主権と、
そんな教科書的な答えを求めてる訳ではありません、

そして国家観については正解はありません。
それぞれの人がそれぞれの国家観を持ってると思います

もちろんロシア人にもロシアの国家観があり
皆さんが思うゲーム脳のような
大国のロシアが小国を侵略したと
そのような0か100かで
語れるような物ではありません。

住んでいる土地・民族・文化も異なれば
様々な人種が集まった集合体
それがロシアです。

ロシアという土地に生まれたけど
私はタタール人だと言う人もいますし
様々な共和国・共同体が集まって
作られたのがロシアだとも言えます。

ただ、その土地に生まれただけで
その国の恩恵を受ける者が○○人でしょうか?

その土地で生まれたからには
その土地で関わった者、育ててくれた者、愛した者、愛された者
その土地の自然への愛、動物への愛、子供たちへの愛
何かしら愛着心を持つのが自然であり
その愛し愛された土地や者を守りたいと思うのが
愛国心につながるのだと思います。

国なんて、どーでも良いから
便利な機能的な部分だけ、
自分だけには快適な恩恵を受けさせろ!
と思う人はDSになれば良いと思います。

彼らの目標は国家を亡くす事ですから(世界統一政府)
ただ、私はそのような人とは
お付き合いもしたくないし、関わりたくないだけです。

私が愛した日本
日本という自然や人々が大切だと思うからこそ
陰謀論者や工作員だ!というレッテルを貼られてまで
お金にもならない、このような活動を
今もいまも、ずっと続けているのです。

私が本当に工作員だと思うなら
ずっと前から、
ワクチン打て打て、マスクしろしろ、ウクガンバレ、コオロギ食べろ!
こういう活動をしてましたよ。

・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

私が本当に工作員だと思うなら
ずっと前から、
ワクチン打て打て、マスクしろしろ、ウクガンバレ、コオロギ食べろ!
こういう活動をしてましたよ。

工作員なら私は「天皇陛下万歳」っていっているよね。

日本を考えると「天皇」で、日本人・日本の国土が破壊されているのは明白で、「天皇の駆除」だけが、それを解決するのだからね・・



日本列島には、市民は存在しない。

居るのは、天皇家とその閨閥と、それの人間型家畜である。

天皇家を殺し尽くして 日本独立

替天行道 天皇抹殺

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように

いいなと思ったら応援しよう!