目から鱗 な戒律の話。
より
上記文抜粋
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戒のお話
昨年末、とても驚いた戒の話がありますのでご紹介します。
曹洞宗の大慈師( @Daiji_Zen)の発言より
https://mobile.twitter.com/Daiji_Zen/status/1602105180119388160
現代日本人はよく戒を悪行チェックリストだと思ってるけど、私が南方で上座部圏の短期出家をしてカルチャーショックだったことは、上座部圏では「戒をたもつことは功徳を積む行為」なので、加点方式なんですよね。
日々の托鉢で僧侶に施しをすることで功徳が得られ、まずは今日が、そして明日が善くなっていくわけですが、時々、戒をたもって生活をすることでガツンといっぱい功徳を得られる…こういう発想なわけです。
「蚊を叩いたから殺生ポイント獲得!」ではなく、「今日は蚊を叩かなかったから不殺生ポイント獲得!」みたいな発想です。
略
ところが道元禅師も「たとえ戒を授かってから違反したとしても、戒を授からないよりずっとずっとずーーーっと素晴らしいことだ」とおっしゃっています。
昔の日本人は戒のとらえかたが現代人とは全く異なっていたことがうかがえます。
こういう話は何度語ってもなかなか浸透しないのですが、私が生きているうちにある程度広めたいと願っています。
戒の話は、難しくて厳しくて面倒なものではなく、授戒そのものが成仏の因縁であり、結縁なんだよ。
了
私は戒については詳しくありませんので、基本は減点式で反省をしていくものと思っていました。
耳の痛い話ですが、仏様に嘘をつきたくないから戒が無い宗派を選んだという方に出会ったこともあります。
さて、十善戒は普段の生活で保つ事は難しいように思います。
ただ意識して生活をしていると道を踏み外しにくく、
破っても戒の場所に戻って行いを振り返り反省する事ができ、
保ち続けると心が清まっていくと感じておりました。
しかしながら、私がご縁のあった戒を全く守る気が無い、
例えば人や人に慣れた犬猫を傷めていく僧侶も
お布施で家庭が持てるほどの収入があり多くの深秘な法を授かることが出来る。
減点式ならここに対して疑問がありました。
なるほど加点式なら納得が行きます。
アーチャン・チャー師手放す生き方より
https://mobile.twitter.com/AchaanChahBot/status/1610277045824794626
比丘にとっての戒律は、自分自身の瞑想のために使われる道具であって、他人を批判したり、他人の欠点を見つけるための武器ではない。自分の意見を手放し、自分自身を観察するんじゃ。それが、わしらのダンマだ。
こちらは上座部の高僧の方の発言です。
皆様もご縁があればお釈迦様が残してくださった宝物である戒を授かってよく保ち、
功徳を積んで未来を少しずつ良い方に向けられると良いかと存じます。
高野山では大師教会にて十善戒のお授けをしております。
機会がございましたら是非足をお運びください。
あらゆる悪をなさず もろもろの善を実行し 自らその心を清らかにすること これこそ諸仏の教えである
南無大師遍照金剛
合掌
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抜粋終わり
もしかしたら、釈迦のつくった戒律は、これではなかったのかな。
上座部が、それならば、大乗もほぼそれのはず。
王陽明が、善を為すも悪を除くも、全部「義を積む」と考えるのがいい。と主張している。
「悪を除けば、それだけ善を回復する」って感じも含め。
で、なんで、日本では、「減点方式」に考えるようになったのか。
私は、一つは「密教の修法と、考え方がごちゃまぜ」になったのが、一つ。
もう一つは、禅宗が武士と強く結びついたために、「減点方式」で、厳しく攻める考えに変ったのもあるかもしれない。
あと、明治以降は、基本「減点主義」の社会になった。
これは「通俗道徳」による、「日本社会の修羅化・畜生化」による。
挙句に「上官の命令責任」は認めないという天皇カルトで、庶民をイビリ倒す国家になったのでね。
出家の不殺生戒すら「天皇のために捨てろ」といえば、しっぽを振って従う「仏教徒」っていうよりも、「天皇真理教徒」だらけの、日本の仏教界は、似非坊主が多いのも当然か。
まあ、叡尊さんの「分戒」って方策も結構素晴らしいよね。
これも一回読んでみるか・・
善龍庵さんの記事にあった、
とか
南無大師遍照金剛