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僕は、多分、自殺しない。

これは、この日本のどこかにいる一人の若者「マナブ」の、「はたらく」を考える短編小説です。
完全フィクションで、小説内に書かれている人物・団体は存在しません。
稚拙な部分も多くありますが、ぜひ読んでいただけますと幸いです。

◆序章

ーーAM1時過ぎ。
終電だというのに、山手線ではスーツを着た大人たちが席を埋めている。

僕も空いた席に腰を下ろし、小さく、ふぅ、とため息をついてみる。
周りを見渡すと、全員が疲れた顔をしている。
僕も多分同じような顔をしているから、車窓に写る自分の顔からは目を逸らすことにしている。

日本では、年に2万人ほどの人が自殺をする。
その動機は様々であるが、「勤務問題」の占める割合は1割ほど。毎年およそ2000人強の大人が、仕事を原因として自殺をしている。
この数字が多いのかは僕には分からない。分からないけれど、今この電車に乗っている誰かは、もしかしたら明日、同じように自殺をするかもしれない。

僕は、多分、自殺しない。
仕事が終わらなくて終電を逃しても、休日に電話対応に追われても、出張先で担当者から不条理に怒られても、上司から嫌味まじりの説教を受けても、相談した先輩から苦笑いをされても、恐らく死ぬことはない。
それでも、100%死なないと、胸を張って宣言することができない。

新卒で入ったこの会社で、まもなく3年目を迎える。
仕事が楽しいとは、もう思えない。
仕事が出来るようになるに連れて、量も責任も増えている。毎日ストレスに押し潰されそうだし、仕事で失敗をして怒られる夢も、残念ながらよく見る。
それでも「他の選択肢と比べるとマシだから」、「生きていくにはお金が必要だから」、毎日必死でやり過ごしている。

その時の僕にとって、それが「はたらく」ということだった。


◆「成したいこと」を考える

翌日、一番仲の良い同期である石坂とランチを食べる約束をしていた。
行きつけの個室がある居酒屋で、ランチタイムは定食を出している店だ。1000円ほどかかるが、魚や野菜が摂れるので週1回は来るようにしている。

いつものように魚の日替わり定食と食後のコーヒーを頼み、店員が出て行った後、開口一番で石坂は言った。

「俺、半年後に会社辞めて独立するわ」

会社を辞める。独立。
自分の選択肢にはなかったワードだったので、少し驚いた。
元々この会社で働き続けることに否定的ではあったので、辞めるだろうなとは思っていたが、精々転職するのが関の山だと高を括っていた。

石坂は明るく活発で、人を惹きつける魅力がある。
全部自分にないものだから、いつも尊敬しているし、どこか羨ましく思っている。

そんな彼が、リスクを取ってチャレンジすると言う。
話を聞くと、今の仕事とは全く違う業種で、生計を立てていく予定らしい。

その領域が正しいのか、それが成功するのかは僕には分からないが、夢を持って日々積み上げているのは確かだ。
僕とは何かがはっきりと違う。

「マナブは優秀なんやから、もっと他の仕事あると思うで?何かしたいことないん?」

彼の言葉に返そうと思い放つ言葉に、いまいちピンとこない。
「この会社が、仕事が好きだから」
「将来マネージャーになりたいから」
「この仕事のスペシャリストになりたいから」
「安定した稼ぎが欲しいから」

違う。どれも違う。
違和感を含んだ言葉を口にしている自分が、まるで別の生き物に思えた。

彼は、何を成したくて挑戦するのだろう。僕は、何を成したくてこの会社に残るのだろう。

ランチを終え、夕方からの会議の資料を作りながら、頭の片隅でそんなことを考えていた。


◆「不快感の正体」を考える

仕事に追われ、気づけば4ヶ月が経過していた。未だ成したいことなんて分からない。
この会社で昇格して、上司のようになりたい訳でも、多分ない。
それでも会社のために、日々をすり減らしている。

石坂は、辞めるための引き継ぎ業務を消化しており、2ヶ月後には晴れてフリーになる。
近況報告も兼ねて、久しぶりに飲みに行くことになった。

時間までに仕事を終わらそうと集中していると、同じ部署の後輩の高野が、笑顔で話しかけてきた。

「マナブさん!今日時間あります?もし空いてたら飲みに行きましょうよ!」

高野は一つ歳下の後輩で、入社時から教育係として色々と面倒を見てきた。
器用だったり頭がキレるわけではないのだが、人懐こくて社交性が高い。
彼もまた僕にないものをたくさん持っているので、歳下だが尊敬している。

高野は石坂と面識があるので、今日の飲みに高野も誘うことにした。
後輩も来るので、尚更早く仕事を終わらせなくてはと、頬をパチンと叩いてPCに向かった。

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ビールを煽りながら、石坂の近況を聞いていた。
引き継ぎ業務で忙しくはあるが、まずまず順調に進んでいるらしい。
目を輝かせながら、フリーになってからの準備を進めていることを教えてくれた。

そうしてしばらく飲んでいると、高野が遅れて入ってきた。
飲みの前にも予定があったらしく、少し息を切らしている。

「遅れちゃってすみません!前に飲んでた奴が帰してくれなくて!」

そう言うと高野は楽しそうに、ビールを注文した。
石坂の近況もそこそこに、高野は枝豆をつまみながら話し始めた。

「俺、夢があるんですよ!みんなを幸せにしたいと思ってて!そのために今頑張ってることがあるので二人に紹介したいんですよ!」

店員が運んできたビールを煽って続ける。

「絶対に成功できるビジネスがあるんです!興味ありませんか?」

開口一番、ビジネス?「怪しい」と思った。「大丈夫か?」とも思った。
何か、彼の都合で押し付けられるような、嫌な感情になった。
ただ、石坂は僕とは違って「そういうのあるねんな〜」と、フラットに聞いていた。

恐らく、僕は感情が顔に出てしまったのだろう。
高野は僕に顔を向けることを辞め、石坂に話し始めた。

「今の働き方だと、稼げる額に限界があるんですよ!不労所得を作らないといけないんです。クワドラントって言うんですけど」

まるで石坂と二人で飲みに来ているかのように、高野は石坂にプレゼンし続けていた。
僕は高野の話を聞きながら、ただビールを啜っていた。

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帰り道、はっきりと胸に不快感を抱いていた。
飲みの後でこんな気持ちになることは初めてだ。

この不快感の正体は簡単だ。
高野がただ一方的に話すだけの時間だったこと、僕の存在をないもののように話していたこと、きっと高野が原因だ。

酔った頭に言い聞かせる。高野が悪い。人を幸せにしたい奴が、参加した飲み会で人を不快にしてどうするんだ、と。

でも、心のどこかで思う。
この不快感の正体は、今の自分にあるんじゃないか。
自分が石坂のように目を輝かせて毎日を過ごしていたら、自分も楽しく話に入れたんじゃないのか。
誇れる自分じゃないから、こんな気持ちで夜道を歩いているんじゃないか。

そんな思いを邪魔だと振り払って、帰路を急いだ。


◆「入学」を考える

アルコールというのは不思議なもので、お酒を飲んでから8時間ほど経過した今でも、アルデヒドに姿を変えて身体に影響を及ぼす。
朝日を浴びてなお、二日酔いの気持ち悪さと、不快感が残っている。

と言っても不快感のほとんどは、アルデヒドではなく、今朝高野から来たLINEが原因だ。

「昨日はありがとうございました!めっちゃ楽しかったです!石坂さんには断られたんですけど、マナブさんは興味ありませんか?今日の夜、30分だけお時間下さい!」

…石坂が無理だったので、代わりに僕が誘われたらしい。
いいビジネスなら一人でやればいいのに、何でそんなに勧めるのだろう。

「マナブさんの予定拝見しましたが、終日出社なので行けますよね?」

開いていた画面に、追加のメッセージが入る。
気は進まなかったが、高野の言うとおり夜は予定はないので、話を聞くことにした。

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結局仕事は山ほど残っているが、仕方なしに放り出して、約束していたカフェに向かった。
会社から少し離れた駅を指定されたが、なぜ会社近くではないのだろう。

カフェに入ると、高野が奥の席で待っていた。
愛想の良い笑顔で軽く手を振っている。

「お時間いただきありがとうございます!今日はこのカフェで、僕にビジネスを教えてくれている"先生"が、マナブさんに説明してくれます!」

高野が説明するんじゃないのか。
だから会社近くではないのだと、納得がいった。

これから来る“先生“が何者なのか聞くと、年収3000万ほど稼いでいる「すごい」人で、「色々な」ビジネスをやっているとのこと。
具体的な話が見えず、怪しさが増すばかりであるが、せっかく話を聞くことにしたのだ。その"先生"から詳しいことは聞けばいい。

説明を聞くうち30分ほど経って、“先生“が現れた。
稼いでいるのが一目で分かる見なりの男性が、明るく笑顔でこちらに歩いてきた。
“先生“は席に座ると、笑顔のまま話し出した。

「こんにちは。君がマナブ君だね。高野君にビジネスを教えている向井といいます。今日はよろしく」

そう言うと、オレンジジュースを啜った。年齢は30代前半くらいだろうか。
肌が綺麗で、肌年齢だけ見れば同い年くらいに見える。
バッグはヴィトン、時計はロレックス。色々と凄いな、この人。

向井さんは、周りでPCを叩いているサラリーマンを見渡して、言葉を続けた。

「みんな、疲れた顔で朝から夜まで働いてる。それなのに、どんなに働いても1000万ちょいが上限でしょ?みんな、僕と同じビジネスをすればいいのにって思うよ」

向井さんの言葉にドキッとした。
向井さんの言う「みんな」に、他でもない自分が含まれていると思ったからだ。
夢も目標もなく、朝から夜までただひたすらに労働している、そんな自分が。

その一言から、僕は向井さんの話に興味が沸いた。
色々と質問をしたところ、雇われの身として働くだけではリスクが高いこと、会社からの給与というのはシステム上、労働した分支払われているわけではないことを説明された。
ただ、一番知りたかった、具体的なビジネスモデルについては明かされなかった。

30分というのはあっという間なもので、気づけば予定していた時間は過ぎていた。向井さんはロレックスをチラリと確認し、次の予定があるからとカフェを後にした。
高野は「勉強になりましたね!やっぱり向井さんは凄いな〜…」と言いながら、興奮を抑えきれない様子だ。

やはり気になったので、具体的なビジネスモデルについて高野に聞くと、少し困った顔をした後で、天井を見上げながら答えた。

「えー、具体的なことは、秘密情報保持もあるので、『入学』したら説明されます!」

よく分からないので更に質問を重ねたところ、『入学』というのは、生徒として向井さんの下で学ぶことを表明することだという。
高野が向井さんから学んでいる場所というのが、いわゆるビジネススクールで、オンラインサロンの形を取っているとのこと。
月額10000円は、会社員の感覚からすると割高だ。

つまり、向井さんが稼いでいる方法、今高野が目を輝かせながら学んでいるビジネスの詳細は、月額10000円払わないと教えてもらえないということだ。

高野からはその後も強く誘われたが、怪しいという気持ちがどうしても消えないので、少し時間を貰うことにした。

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帰宅後、布団を被って向井さんの話を思い起こしていた。
具体的な話はお金を払ってからというのは、どう考えても怪しい。怪しいけど。

ただ仕事をやり過ごしている現状、夢も目標も生きがいもない人生を変えられる可能性に、強く惹かれた。
社会人になってから初めて、環境を変えたいと強く思ったかもしれない。

考えに考えた結果、とりあえず『入学』してみることを、LINEで高野に伝えた。


◆「ビジネス」を考える

『入学』初日、スタートセミナーというものが開催されるとのことで、その会場に向かっていた。
会場前に、高野がいつもの笑顔で待っている。

「マナブさん!今日のセミナーは最高なんで、楽しみましょうね!」

高野はそう言いながら、入り口近くの階段を上がっていく。
寂れたビルの2階、貸し会議室が会場となっているようだ。

会議室の扉を開けた瞬間、大音量の洋楽が耳に入ってくる。
中に入ると30人弱のメンバーが、和気藹々と話しながら、高野と同じようにニコニコと笑っていた。
殆どが20代前半、男女半々くらいだろうか。

高野も例外なく、メンバーの何人かと仲良く話している。
聞いてみると、ここにいる全員が、向井さんに教えてもらっているメンバーなのだという。

そうこうしていると、セミナー開始時間となって、向井さんが登壇した。
会場全員が大きく拍手をした。

向井さんは一礼すると、愛想の良い笑顔で自己紹介を始めた。
過去に貧しい思いをしていたこと、懸命に勉強して大手食品メーカーに就職したこと、リーマンショックで給料が下がったためこのビジネスを始めたことなど、内容は当たり障りのないものだったが、徐々に会場の様子がおかしいと感じ始めた。

向井さんが何か話す度に、へーっとかほーっとか、会場全体が大きなリアクションをする。
何か冗談を言うと、会場全体が大きく笑う。
そんな雰囲気に違和感を感じ、正直気持ち悪いと思った。

向井さんはその感情を見抜いたのか、「今感じている違和感こそが成長できるポイントだよ」と僕に向かって話した。
今の自分を変えたいと思う時、違和感があるものを取り入れてみることで、価値観と考え方を変えることができるとのことだ。

そしてその後、一番気になっていたビジネスモデルについて説明があった。

サロン内で認められると、生活雑貨店を出して経営することができる。生活雑貨店を経営するためのノウハウがサロン内に蓄積されていたり、共通の仕入れ先があるため、極めてリスクが少なく必ず成功する。また、生活雑貨店を含む小売店業は社会的信用が高いため、そこで得た収益を担保に別のビジネスを展開すればいい。そうすれば不労所得を増やすことができる。そのような説明だった。

肝心の「サロン内で認められる基準」というのが、「10人のパートナーと、60人のチームを作ること」であった。つまり、自分の友人をサロンに勧誘して10人集め、その10人から更に数珠繋ぎで計60人サロンに入れることが出来れば、生活雑貨店を経営することが出来るらしい。
高野が僕や石坂をしつこく勧誘していたのは、これが理由だったのだ。自分の利益目的だったんだなと、少し嫌な気持ちになった。

その他にも、向井さんは以下の内容を話されていた。

・このセミナーにいるのは向井さんのチームであり、そんなチームが山ほど存在している。サロン全体で10万人ほどの人数がいる。
・勧誘の際、サロンに興味を持った人を向井さんに紹介する。
・人生を変えたいのであれば、稼いでいる人の価値観をフルコピーすることが大切である。過去はゴミと考えて、稼いでいる人の言うことを全て聞き入れて、変化していく。
・価値観を入れ替えるために、土日のセミナーにはフル参加する。
・そのために、住む場所は先生=向井さんの側に変えた方がいい。土日のセミナーに参加するために、土日休みの仕事に変えた方がいい。
・情報の取り所に気をつけて、ネットの情報は鵜呑みにしない。
・稼ぎたい収入の10%ほどの金額を自分に投資することが必要である。

会場自体に違和感は感じているが、話している内容は最もだと思った。
僕が入ることで自分にメリットがあることや、入ったら人を集める必要があることを話さなかった高野には不信感を覚えたが、10万人規模のこの環境で頑張れば人生を変えることが出来るかもしれない…。現在に不満を感じている僕がそう思うには、十分な内容であった。

セミナーが終わった後、高野の案内もあり、向井さんに話しかけに行った。今まで考えたことのないような内容だったこと、このサロンの可能性を感じた旨を伝えると、向井さんは「これから頑張って、みんなで成功しよう」と笑って言った。

そうか、これがビジネスを始めるということなのか。
この違和感こそ、僕が変わるためのポイントなんだ。

その日から僕は、サロンへの勧誘をスタートした。


◆「信頼」を考える

最初のセミナーから三週間ほどが経過した。あれから毎日、会社の同期や大学時代の友達と会ってサロンの勧誘をしたり、隙間時間に知らない人との交流会や街コンに参加して人脈を広げ、土日はセミナーを受講している。そして活動の内容を、毎日メールで向井さんに報告する日々を送っていた。
その間、気づいたことが5つある。

1つは、サロンメンバーが常に元気で前向きであること。
みんないつもポジティブで明るくハキハキとしており、夢や希望を持って活動に取り組んでいるように感じられた。話をすると何につけても褒めてくれるし、前向きで悪口や不満を言わないので、週末にみんなに会えるといつも元気になれた。

1つは、勧誘することの難しさ。
アムウェイを始めとして、マルチ商法がすでに広く知れ渡っているため、久しぶりに会ってビジネスの話をするとかなり怪しまれてしまうのだ。このサロンは月会費の10000円程度払うだけで、勧誘を達成すれば自身の人生を本当に変えることができるのだが…。
上が下から搾取するシステムではないのでMLMなどとは違うのだが、なかなか向井さんに紹介するまでに至らない。

1つは、セミナーに中身がないこと。
毎週末のセミナーではビジネスについて具体的に教育されるわけではなく、サロンに勧誘するよう奮起させる内容であったり、多く勧誘した人を表彰するものであった。
勉強になることは正直なかったが、登壇した人が毎日5人の友人とアポを取っていたことや、街中で一日200人に声かけをした経験などを話されており、参加する度に勧誘するモチベーションが上がっていた。

1つは、会社の仕事が回らないこと。
今まで仕事に注いでいた時間を人に会うことに変換したため、これまで残業して終わらせていた仕事が全く手につかなくなった。仕事の不備やリマインドで内部でも外部でも迷惑をかけまくっているが、人生を変えるために定時以外は極力サロンに時間を注いでいた。

そしてもう1つは、同じ会社の人を入れられる見込みはほぼないこと。
会社の近しい人には高野が一通り勧誘(しかも半ば強引に)してしまったようで、僕が先輩を勧誘しようとしたところ、
「もしかして高野くんと同じやつ?噂になってるから辞めた方がいいよ…」
と、苦虫を噛み潰したような表情で断られてしまった。

そんな中でも、サロンのみんなは頑張って、何人かは勧誘に成功している。僕も結果を出したいが、今のままでは上手くいかないと感じていた。
性格上押しが弱く、相手が嫌がっているように思えるとすぐに引いてしまっていたからだ。

そこで、金持ち父さんなどの不労所得の本はもちろん、営業力についての本、リーダーシップについての本、成功者になるためのマインドセットの本など、使えそうな知識は片っ端からインプットしていた。
勧誘をいかに成功させて向井さんに繋ぐか、そればかり考えていた。

そうやって四苦八苦していると、一ヶ月を超えたあたりから、徐々に成果が出始めていた。
向井さんの紹介を受けてくれる人が出始めたのだ。

それに伴い、僕は自信をつけ始めていた。
元々の給料が良いので、毎月10000円払い続けることはそこまで苦ではなかったし、10名誘って60名のチームを作るだけで、ノウハウの蓄積されたビジネスを始められるというのは画期的だと思っていた。そのため、他のみんなもやればいいと思っていたし、勧誘することに良心が痛まなくなっていたのだ。

胸を張って説明することで怪しまれることが減り、説明も上手くなっていった。向井さんの紹介まで終えて、大学時代の友人2人が入ることを検討してくれていた。

本当のことを何も分かっていなかったから、順調に思えていたのだ。

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「入学」してから一ヶ月半ほど経ったある日、いつものように勧誘活動に勤しんでいた。
中学時代に同じ部活だった友人の澤部と、3年ぶりに会うことになっていたのだ。もちろん勧誘目的で、アポイントを取り付けた。

待ち合わせていた飲み屋に入ると、手前の席に澤部を見つけた。
…が、もう2人いる。同じ部活だった高島と堤だ。この二人は成人式以来だが、なぜいるのだろう。
複数人の席では基本的に勧誘はしない。誰か一人でも怪しむと全員の意見がそちらに流れてしまう傾向にあるからだ。
作戦を練り直そうと少し考えていると、澤部は僕を見つけ、不機嫌そうな顔で手招きした。

僕が席に着くと、開口一番澤部は言った。

「お前、片っ端からマルチに誘ってるだろ。今日もそれ目的だな。ふざけんな」

きつい目で睨み付けてくる。高島と堤も同様に、じっと僕を見据えている。
多少同様はあったが、怪しい勧誘ではないのだ。僕は仕方なしに答えた。

「マルチじゃないよ。確かに澤部にも声をかけようと思って今日誘ったけど、悪い話じゃないんだ」

今までしてきた通り、サロンについての情報を伝えた。月会費のことも、ビジネスのことも、互いのメリットのことも。これで理解してくれるだろう。

一通り話終えると、澤部は怒りを押し殺すように右拳を握り締め、静かに言った。

「……この詐欺師め。俺たちは事前に調べてきてるんだよ。全部話せ」

なんだ。何を言っているんだ。僕は混乱した。知っていることも全部話したのだが。澤部の調べたこととはなんだ。
澤部は続けて話した。

「お前から勧誘を受けた奴から話を聞いて、ネットで調べたんだよ。そしたら情報が出てきたよ。洗脳させて、月に10万も払わせるんだろ

洗脳?月に10万?何を言っているんだ。
どこで調べたか知らないが、そんな嘘情報でこき下ろされるわけにはいかない。

「なんのことだよ!嘘つくなよ、そんなの知らねえよ!」

僕が怒鳴ると、澤部はキレて胸ぐらを掴んできた。
殴られる!…そう思った瞬間、高島が止めに入った。

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高島が澤部を押さえつけてくれて店の外に出てくれたので、僕は少し伸びてしまった服を直していた。
ネットに落ちてるような信憑性のない情報、なんで信じるんだろうか。せっかく良いビジネスだから声をかけようと思ったのに。

服を直し終わって、はぁと大きくため息をつくと、堤は冷静に話し始めた。

「マナブが所属してるサロンって、名前なんていうんだ?」

サロンの名前…、そういえば分からない。みんな、最高のチームとか、最高の場所とか、そういう言い方をしているなと思った。
正式な名称が分からないことを話すと、堤は答えた。

「だよな。10万人もいるサロンなのに、正式な名前がないのはおかしいと思わないか?知名度を上げてメンバーを募った方が合理的なのにさ」

確かに、名前を売ることでできることが広がるのに、なぜ周知しないのだろう。MLMの会社ですら、アムウェイみたいに名前があるのに。
…ん?もしかして…。

僕が何かに感づいたことを察したか、堤はまたも静かに言った。

「考えられる理由はひとつ。悪評を抑えるためだよな。正式名称で検索されて悪評が見つかって、それが断る材料になってしまう可能性があるから」

言い返したい気持ちは山々だが、まあ一理ある。堤は続ける。

「今回の件で澤部と話して、調べてみたんだよ。『生活雑貨店、マルチ』って。そしたら、月に10万払わせる組織だって書いてあってさ」

一瞬言いくるめられそうになったが、我に帰った。こいつらは向井さんの説得力のあるセミナーを受けた訳でもなければ、サロンの前向きなみんなにあった訳でもない。なんと言っても僕は、月に1万円しか払っていない。

僕は、会計として5000円札を置いて「不愉快だから帰るわ」と席を立った。堤は、ダメだったかと言わんばかりに、ふぅと息をついて、

「そんなんじゃ信頼失うぞ」

と、僕の背中に向けて言い放った。
ちょうど澤部が店内に戻ってくるところに出会してしまい、僕を一瞥すると、「もう二度と連絡してくんなカスが」と呟き、席に戻った。


向井さんの言う通り、情報の取り所には拘らなきゃダメだ。
あいつらみたいにネットの情報に踊らされてしまう。
何が信頼だ。僕を信頼してないのは、あいつらの方じゃないか。


◆「自己投資」を考える

判断に迷ったり、勧誘で嫌なことがあった時は、自分の先生に電話して価値観を修正する。サロンではこれをティーチと呼んでいる。

今日の澤部との一件、どう考えても情報に踊らされた澤部が悪い。しかし、勧誘で躓いてしまったのも事実なので、夜遅くではあるが向井さんにティーチを仰ぐことにした。

向井さんはいつも通り、「はいはーい」とワンコールで電話に出る。僕は軽く名乗ってから、今日の出来事を事細かに話した。
勧誘するつもりが揉めてしまったこと、彼らがネットの10万とかいう情報に踊らされてしまっていること、名前がないのは確かに気になったこと…。
向井さんは一通り聞いてから、答えた。

「10万はね、強制はしないけど、みんな成功するために自己投資に使っているね。年収1000万稼ぎたいなら、今から月に10万くらい使わないとね」

10万とは、自己投資のことだったのか。
なるほど、情報が錯綜して、それをサロンに払っていると思ってしまったのかな。
それも聞いてみると、向井さんは少しバツが悪そうに答えた。

「うーん、そうだね。メンバーの中には、10万の自己投資先として、先生の店の商品を買うこともあるから、それが悪い伝わり方になっちゃったのかな」

少し引っかかった。
自己投資として脱毛や本の購入やイベントの開催にお金を使えということかと思っていたが、生活雑貨にお金を使えということなのか。
僕の不安が伝わったのか、向井さんは慌てた様子で続けた。

「世の中には、この方法を理解できない、或いは非難する人もいる。こんなに画期的でみんなが幸せになれる方法なのにね。
理解できないものを人は妨げたがるんだけど、そういう人に目を向ける必要はない。みんなより稼ぎたいなら、みんなとは違う価値観を持たなくちゃね」

向井さんの言うことはごもっともだと思う。みんなと同じ価値観では今までと変化がないとも思う。
けどなんでだろう。少し引っ掛かりがある。自己投資って何なんだろう。

色々とあった一日ではあったが、あまり深く考えず、幸せになるために明日も頑張ろう。
そう頭を切り替えて、僕は眠りに就いた。


◆「本質」を考える

澤部との一件以来、半月ほどが経った。
僕は変わらず勧誘とセミナーの日々を過ごしていたが、少し変化があった。

勧誘をしても、上手くいかない。
怪しまれることや、リスクについて聞かれた時に上手く答えられないようになった。
参加に前向きだった大学時代の二人も、アポの予定がなかなか合わず、心なしか避けられているように感じた。

「信頼を失うぞ」…堤から言われた言葉が、頭に反響する。
自分がやっていることが正しいことなのか、本当は大切な友人を貶める可能性があるのではないか、そんな風に思うようになっていた。

けれど、週末になると思うのだ。
セミナーで登壇している成功した人たちは、同じ土壌で結果を出して、稼いできちんと幸せになっている。
切磋琢磨しているチームのみんなは、前向きで明るくて尊敬している。
ただ、僕の努力が足りないだけではないか。この場所やここにいる人たちは本当に正しいことをしていて、澤部たちが浅い情報だけでワーワー言ってただけではないか。

どうしても頭のモヤモヤが晴れない僕は、紹介者である高野に相談することにした。
セミナー帰りに飲みに誘うと、「おーいいっすねえ!何でも相談に乗りますよ!」と笑顔で答えた。人に頼られるのが好きな性格なのだ。

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日本酒をすすりながら、澤部たちとの一件を高野に話した。その後の向井さんのティーチについても。
高野は話を聞きながら、ポツリと呟いた。

「マナブさんも自己投資始めれば、確信入るのかなぁ」

確信が入る、という聞き慣れないセリフに引っ掛かり、どういう意味か聞いてみた。

「自己投資を始めると、覚悟が決まるんですよ。これだけのお金を費やしてるんだから、絶対成功すべきだって」

それは少しおかしい。脱毛やイベント開催で決まる覚悟とはどういうことだろう。そう思ったことを聞いてみると、ヤバイという表情を一瞬見せた後、しどろもどろになりながら高野は答えた。

「いや、そうなんですけどね。毎月10万出費すると、やっぱりその、稼がなきゃなって強く思うというか」

この男、何か隠している。鈍感な僕もさすがに直感でわかった。
これ以上高野に聞いても埒が明かないので、この場は納得したふりをして切り上げることにした。

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久しぶりに石坂に会った。
会社を辞めて晴れてフリーになった彼は、心なしか表情が晴れやかであった。
「金ないやんなー贅沢できんわー」と言いながら、ニコニコと発泡酒を飲んでいた。

公園でおじさん二人が夜に飲んだくれている。普通なら通報案件だが、人の少ない公園だ。いちゃつくことに集中しているカップルが、僕らを通報するとは考えづらい。

「で、どうしたんや。なんか相談やろ。サロンのことか」

石坂にはすでにサロンのことを話していて、勧誘行為にも比較的好意的であった。石坂はやりたいことがあって独立するので勧誘対象ではなかったが、だからこそ心穏やかに相談出来ていた。

僕は、今まであったことと引っかかっていること、全容が見えず悩んでいることを話した。
石坂は黙って全部聞いた後、携帯を開いて何やら操作し始めた。

「マナブは、サロンのことをネットで検索したことあるんか」

僕は首を横に振った。ネットの情報を鵜呑みにしないというサロンの教えが身についていたのもあるし、不確かな情報に惑わされたくなかったのだ。

「これ、見た方がええで。見た上で何が正しいか考えや」

そう言って、携帯を差し出してきた。そこに映っていたのは「悪徳マルチ紛い集団に注意しろ」というWebサイトだった。
ネットの情報なんて見たくなかったが、石坂が僕のことを思って言ってくれていることだ。そう考えると、断ることは出来なかった。

内容を読むうちに、血の気が引いていくのが分かる。
僕は、もしかしてとてつもなくヤバイことに関与していたんじゃないのか。そんな風に考え始めていた。

Webサイトに書いてあった情報が、以下である。

・サロンには「先生」と名乗る人物がおり、サロンメンバーが崇拝するよう洗脳している。毎日活動を報告させたり、週末にセミナーに強制参加させたり、セミナーでオーバーリアクションさせたり、勧誘に失敗した時に相談に乗ることで、信仰心を高めている。
・セミナーでは、先生の価値観をフルコピーすることを謳い、先生の言うことを忠実に聞くように洗脳している。また、勧誘に成功した者を称えることで、勧誘することが成功であると信じさせている。
・自己投資という名目で、月に10万円、先生のお店から生活用品を買い込ませている。自己投資は洗脳により信仰心が増した3ヶ月目あたりから開始される。
・チームメンバーの自己投資によって、先生の生活雑貨店は一定の収益を得ることができ、絶対に黒字となる。
・入ってすぐに、住む場所や仕事を変えさせることで、後に引けない状況にする。それによって自己投資をせざるを得ない環境を作る。
・ネットの情報は鵜呑みにしないことを強く推奨することで、余計な情報をシャットアウトする。
・先生の店舗もまた、サロンの上の会社から物品を仕入れている。つまり、上が下から搾取する図式となっている。
・洗脳やビジネスの情報開示をしないことから、MLMよりも遥かに悪質なマルチ商法と言える。

僕は、泣きそうになりながら読んでいた。全部当てはまる。まだ10万云々の話は出ていないが、向井さんや高野の様子も説明がつく。これが全部本当なら、僕は大変なことをしてしまっていた。勧誘した全員の人生を狂わせようとしていたのだ。

青ざめた顔をする僕に、石坂は言った。

「これが全部本当だとしても、俺はこのサロンが悪だとは思わんで。人数揃えたら約束通りビジネス始められるんやろ?しかもメンバーが絶対買ってくれるんやから、赤字にもならんやん」

一息ついて、石坂は言った。

「これは善悪の問題ちゃう。大事なのは、物事の本質を考えて、自分がそれをやりたいかどうかやと思うで

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そこからの記憶はあまりない。多分適当に話した後、解散したのだろう。気づけば家で座椅子に座りながらボーッとしていた。
僕はこのサロンで何をしたかったんだろう。どうなりたかったんだろう。

本質を考えて、という石坂の言葉が胸に残っている。
僕がやっていることの本質とは何だろう。


◆「稼ぎ方と人生」を考える

それから半月ほど経った。
僕は変わらずセミナーには出ているけれど、友人を勧誘するのはストップしていた。
自分のやっていることが悪いことかもしれないと思うと、どうしても気が進まなかった。

しかし、チームメンバーはやはり前向きで楽しそうに活動している。勧誘を促進するためのイベントも多く企画されている。
高野も、僕以外の新しいメンバーの勧誘を頑張っており、チーム内でハッパをかけられていた。

この環境にいると、このサロンが正しいのかなと思えてくる。
それくらい、みんなが明るくハキハキとしているし、先生のように成功することを心から望んでいる。

でも、ネットの情報では、ここは下からお金を巻き上げるような環境なのだ。それが本当なら、正しい訳がない。悪だと言える。

そんな風にクルクルと考えを巡らせていた。
正義か悪か、どうしても僕には判断できなかった。

そうだ、石坂が言っていた、本質はどうだろう。
正義でも悪でもない、本質。

ネットの情報は、恐らく本当だ。
見る立場によって見え方は変わるが、きっと自己投資10万は必要になるし、セミナーでそのように仕向けているのは否定できない。
住む場所や仕事をサロンに合わせるよう入ってすぐに周知しているのも、残念ながら事実だ。

だからと言って、このサロンで頑張っているみんなが悪だとも思わない。
みんな、今の自分や環境を変えたくて、先生の立場になろうと懸命に頑張っている。
勧誘も、その人と一緒に成功したいと信じて、胸を張ってやっているんだろう。

考えるべきは、僕のことだ。

ここに入って、人生が変わるかもと思って勧誘を始めてみて、生まれて初めて物事に本気になれている。生きているって実感できるし、みんなと頑張れるのは本当に楽しい。

そして、成功したら先生のように店舗を持って、年収何千万と儲かるようになる。言い方は悪いが搾取する側に回る。サロン内で立ち位置が上がっていき、社会では悪徳マルチで搾取していると叩かれるようになるかもしれない。
これが僕がなりたい姿だろうか。必死に毎日をすり減らして、なりたいと信じた姿だろうか。

何千万と稼ぐ自分にはなりたい。そんな都合の良い稼ぎ方は僕には分からない。でも、でも、自分が本当に稼ぎたい形は、ここで搾取することじゃない。
若者の夢を利用して、収益を挙げるようなことが僕のやりたいことじゃない。

このサロンを辞めよう。
善悪もやりたいことも分からないままだが、そう決心することだけはできた。

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辞めるのに必要なのは、サロンのWebサイトの退会ボタンをクリックするだけだ。しかし、短い期間ではあるがお世話になった身である。きちんと筋は通したいと思った。

まずは、紹介者の高野に報告することにした。
セミナーからの帰り道で高野に辞めることを伝えると、いつもの笑顔がふっと消え去り、次の瞬間激昂した。

「なんでですか!!!ここで一緒に頑張るって決めたじゃないですか!!!そんな簡単に夢を諦めても良いんですか!!!」

正直、そうですかーお互い頑張りましょうねなんて言われるかと思っていたので、内心ビビっていた。それでも僕は、ここで成功することがやりたいことではない、後から情報が出てくるのは信頼ができないのだと伝えた。

高野はその言葉を受けて、「自己投資について事前にお伝えしていなかったのは謝ります。でも今後マナブさんが勧誘する時に伝えれば良いじゃないですか!」と言った。そういうことではない。

自分がどうするか云々ではなく、そもそも悪質に思えても仕方のないサロンのスタンスが嫌だと伝えると、くぅと苦しそうに呻いた後、「僕はマナブさんと一緒にビジネスがしたかったんですよ〜」と少し泣いてしまった。

なんだか悪いことをしたな、純粋に僕と成功したかったんだな、申し訳ないなと思ったが、僕の人生は僕のものだ。関係ない。

その後も何を伝えても「僕はこう思うんです〜」の堂々巡りで埒が明かなかった。
その場で4時間ほど話し、その後電話で3時間ほど話したところで、
「実はマナブさんが抜けると、僕のメンバー数が下がっちゃうんですよ。今月末に10人のメンバーを集めるプランで動いているので、それまでは続けてください」
という要望を飲むことで、ようやく納得してもらえた。
何が純粋に僕と成功したかったんだなだよと、7時間前の自分に呟いた。

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次は、先生である向井さんだ。
向井さんと面と向かって話すためには、向井さんの空いている時間に近くのカフェに出向く必要がある。
アポイントを取り、時間の少し前に着いて待っていると、時間ぴったりに向井さんが現れた。

向井さんに辞めることを伝えたところ、思いの外冷静だった。

「ここは画期的なシステムだし、努力したことが叶う土壌だよ。ここで努力できない人が、他のことやっても成功するとは思えないな」

正直、ぐさっときた。これまで努力してこなかった自分が、言い訳を作ってこの環境から逃げ出そうとしているようにも思えるからだ。

でも、もう決めたことだ。ブレない。

「すみません。ここで成功したいとは、どうしても思えないんです。今までありがとうございました」

そう言って向井さんの顔を見ずに、足早にカフェを後にした。
何か言われるかと思ったが、先生は特に僕の背中に声はかけなかった。

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それから少しの日が経って月末、高野から、一本のLINEを受領した。

「10人の仲間を作ることができました!!!人間、結果を決めて中身を埋めれば不可能なことなんてないんです!!!」

高野は、有言実行をしたのだ。勧誘の難しさを知っている者として、本当に尊敬した。
「おめでとう!!」とLINEを返して、約束通りサロンのWebサイトの退会ボタンをクリックした。

こうして僕は、短く濃厚なサロン生活を終えた。


◆「はたらく」を考える

嵐のような日々が過ぎ去っていった。
サロンを辞めたことが正しかったのか、未だに分からない。
知識を得て大きくなった欲望と、勧誘で走り回っていた時間が、ぽっかりと胸に穴を空けている。

ところで風の噂によると、高野が10人集めたというのは嘘で、高野が不足分である9人分のサロン代を自分で負担することで、10人誘ったという事実を作り上げたらしい。
もちろんそれでは店舗を開くことはできないが、サロン内で表彰されたり、10人誘ったという名誉を手にすることができるため、彼にとっては価値があるのだろう。
自分のサロン代と自己投資費用と、10人分のサロン代。彼がこの先も払い切れるのか、彼が将来成功するのかは、正直分からない。

さて、サロンを辞めて翌日から、会社と家の往復の日々に戻ったわけだが、溜まってしまった仕事を片付ける毎日に、どこか物足りなさを感じていた。
夢中になって勧誘に勤しんでいたため、やりたいことのなくなった時間で、自分が人生をかけて実現したいものは何なのか、考えるようになっていたのだ。

自分が仕事をしながら感じること、サロンで夢見たこと、人生で嫌だったこと、一番楽しかったこと…。色々と思い返していた。

そうだ。まず大前提として、僕は少なくとも、ストレスを感じるために仕事をしているんじゃない。お金を稼ぐために、生活をすり減らしたいと、学生の時の僕は夢見ていた訳ではないのだ。
当たり前のことなのに、僕はこの仕事でたくさんのストレスを感じているのだと、ようやく理解できるようになった。

あと、小学生の時から今までずっと、読書が好きだったことも思い出した。本には、様々な英知がある。作者の価値観や人生感が詰まっている。自分の人生では感じ得ない幸や不幸が溢れている。
僕も文章を書いて、いつか本を出したい。自分の人生を込めた本を、たくさんの人に読んで欲しい。そんな風に思うようになっていた。

だから、文章作成の練習のために、「note」というサービスで毎日記事を書くことにした。
些細なことだが、オススメの映画や本の紹介、仕事で必要な知識など…。ジャンルを問わず様々な記事を書く。

まだ、自分のしたいことは分からない。
自分の取り組んでいることに、幸せな未来があるかも分からない。
それでも僕は、納得できる方法でお金を稼ぎたいと思う。やりたいことで生計を立てられたら幸せだと思う。ストレスのない自由な生活がしたいとも思う。

僕は、絶対、自殺しない。
日々積み上げる先で、いつか本当の幸せを掴んでやる。

幸せになる、そのために過ごす毎日。
それが「はたらく」ということだと、今は思う。

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凡才
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