『クレオの夏休み』映画評 こどもが死生観を知る映画
『クレオの夏休み』いい映画でした。
ことし公開された『リンダはチキンが食べたい!』に通じる、こどもの死生観が芽生えるようすを描いた秀作だ。
クレオはフランスで様々なバックグラウンドを持つ子供たちに囲まれて育った。記憶の芽生えよりも先に実母を亡くし、乳母を雇ってはいるものの、父親が子育てと労働の二軸でクレオのことを支えている。
そうした先進国然としたフランスのとある家庭に家事手伝いとして参加した乳母のグロリア。彼女は亡き母の代わりか、部外者か。そのこたえを探すクレオの旅を追ってみる。
旅に出る前、クレオはまだ「別れ」の概念をよく掴めていない。母親を亡くして祖国に帰らないといけなくなったグロリアの境遇を理解するのも難しい。彼女は一時的に離れるだけで、ずっとクレオのそばにいるはずの人間なのだ。クレオの父親とグロリアが話していた別れの前夜も、その別れがどういったものか、分からない。
そうしてクレオの半ば我儘によって実現したアフリカの島国カーボベルデへの旅。グロリアの実家に到着するや否や、彼女は目を疑ったに違いない。フランスでは様々な人種が集う環境が形成されているが、この島国では真逆だ。肌の黒いひとたちがほとんど。
グロリアと家族は暖かく迎えてくれた。息子はつっけんどんだけれど。グロリアの娘の出産が近い。そういえばこの島国では男性が漁に出て稼ぎ(少年たちも漁場近くの海辺で遊ぶ)、女性は育児や出産に勤しんでいるように見える。クレオは、その価値観の新旧は分からなくとも、自分の父親が会社と家庭の両輪を担っていることに気づいただろうか。
しばらくして、グロリアがおばあちゃんになる。クレオが初めて出会う「年下」の人間と、「母」となったグロリアの娘。そして、かつてそうだったグロリアが再び見せる、母の顔。
クレオにとっての「母」の存在は、彼女の記憶の中では希薄でその輪郭しか思い出せない。果たして、グロリアがフランスでクレオに向けていた表情は実母のそれだったのだろうか。カーボベルデでのグロリアの母としての表情を観察する。フランスでの思い出と照らし合わせる。そしてぼやけた実母の輪郭をなぞってみる。グロリアはクレオが思い出せずさも初めて見るかのような表情を、言葉も話せない赤ん坊に向けている。
自我が芽生えた子供とはさしてそういうものだ。幼いころ実母からもグロリアからも「母」の慈愛を受けていたことなんて、クレオは思い出せない。赤ん坊への嫉妬や憎しみが顕わになってしまった。グロリアが声を荒げて怒った。ああ、自分は悪いことをしてしまったんだと自覚する。亡き母のぼやけた輪郭がくっきりすると同時に、「死」が概念として浮かび上がる。クレオは学ぶ。はじめて目の当たりにした「生」の誕生を祝福することの尊さを。そして、ひとが死んでしまったら元には戻らないことを。死が別つ人びとの関係は、不可逆だから悲しいんだ、と。
この旅で一番大事なことを学んだ。空港でグロリアと別れるとき、クレオはちらりと振り返る。この離別が永遠のものにならないよう、実母との別れの悲しみと同じにならないよう、祈りを込めるような目線でグロリアの方を見た。
実母の死を経験したふたり。孫が生まれたグロリアはこれから世代の奥の方に押しやられていって、クレオは世代の最前線を生きていく。ふたりがすれ違うのは当然のことだ。だけど、死別じゃない。グロリアは島に永住するつもりで、今生の別れに近い決意があるから涙を流す。でもクレオのまなざしは、また会いに行こうという希望に満ちている。
何ヶ所かに挟まっているアニメーションも、クレオの回想として秀逸だった。
なんといってもクレオとグロリアは演技初経験なのだから、驚きである。むしろ、彼女たちとスクリーンの間のフィルターは最小限にした方が良かったんだろうな。カーボベルデを遠巻き映すその環境はドキュメンタリーのように現地の手触りを感じられたのだけど、主演2人が織りなすフィクションも、その境界はあいまいだったように思える。
90分にも満たない尺の中にたくさんの出会いと別れが詰まっている。クレオの瑞々しい眼差しにあてられると、まるで大人になって沈殿した感性がスノードームのように巻き上がるようだった。