進歩という福音 (トランスヒューマニズムとメタバース その1)
訳者より:トランスヒューマニズムとは、新しい科学技術を用い、人間の身体と認知能力を進化させ、人間の状況を前例の無い形で向上させようという思想。「超人間主義」などと訳されることもあります。メタバースは、コンピュータやコンピュータネットワークの中に構築された、3次元の仮想空間やそのサービス。これらが指し示す未来像は、ユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』に書いているようなものです。それは歴史家が見据える、これまでの延長線上としての未来観ですが、チャールズ・アイゼンスタインはこれが必然的な未来だという考えに反旗を翻します。原文は7部からなる長大なエッセイですが、翻訳に時間をかけるよりも少しずつ公開しようと思い、著者の意に反するかもしれませんが1部ずつ掲載していきます。
トランスヒューマニズムとメタバース
チャールズ・アイゼンスタイン著
2022年6月16日
1. 進歩という福音
太古の昔に人類が他の原人から分かれて以来、私たちの道具と記号のシステムは加速度的に発展してきました。私たちの身体的能力に依存することはどんどん少なくなり、情報の領域、つまりデータ、言葉、数字、ビットの世界で活動することがますます多くなっています。
すると全く自然に、私たちはこの発展を称賛する進歩という考えを思い付き、そこから果てしなく続く未来を予見する運命の物語を考え出しました。その未来では、かつて無いほど全面的にテクノロジーを人体へと取り込み、ついに私たちは単なる人体以上のものになります。その未来では、自分自身が表象の中へと完全に没入し、仮想現実が物質的現実よりも本物と見えるようになります。最初に言った概念がトランスヒューマニズムで、二番目がメタバースと呼ばれるものです。
この未来像の典型的な例を、ガーディアン紙のご厚意により紹介します。
この記事の題は『「猿の脳を持つ肉袋」を超えて:トランスヒューマニズムは人類を救えるか?』です。そこに見えるのはある種の反物質主義で、生物としての身体を超越し、自分自身の自己を超越するという野望です。記事がほのめかすのは、自己は中に脳を収めた肉の袋にすぎないということです。私たちはより多くを得るよう、より良くなるよう運命づけられているのです。この反物質主義の先入観は労働の終焉への憧れにも現れます。私たちの肉体を使って物質を動かすような労働を不要にするのです。また、死そのものに勝利するという究極の野望にも現れます。そのとき私たちは本当に、生と死を繰り返す生物としての身体を脱却し、移ろい行く物質を脱却していることでしょう。
その目標はいつも進歩という名のイデオロギーの暗黙の前提となっていました。そこでは、自然を操りその働きを我がものにする能力の改善を、人類の前進と同じだと見なします。シャベルをブルドーザーに持ち替えたら、それが進歩です。それが目指すのは神のように自然を支配する権利です。デカルトは、近代性を説いた最も重要な指導者に違いありませんが、人類の運命を言った有名な言葉があります。科学とテクノロジーを通して「自然の支配者と所有者になる」のです。これに続く一節は、先に引用したガーディアン紙の記事に書かれた野望を予め示していました。デカルトはこういいます。
トランスヒューマニズムは今に始まったことではありません。テクノロジーへの依存を強め、それと一体化するという、先史時代からの流れが今も続いているのです。私たちが火に依存するようになったとき、顎の筋肉が萎縮し消化酵素が変化しました。それから何十万年も経ってから、表現言語が私たちの脳を変えました。家畜化、窯業、冶金といった物質的テクノロジーと、ついには産業が、それらに完全に依存した社会を作り出しました。シリコン脳ハイブリッドがデジタル管理センターを運営し、物理的なことはあらゆる点でロボットが面倒を見て、完全に人工現実の中で生活するという未来像は、以前からある流れの頂点を示しているだけで、少しも方向性が変わったわけではありません。もう既に長い間、人類はある程度バーチャル・リアリティの中に生きてきました。概念や物語や名前というバーチャル・リアリティです。その中に私たちをもっと没入させるのがメタバースです。
トランスヒューマニズムは進歩を象徴しているので、それを支持する傾向が進歩主義者にあるのも不思議ではありません。進歩主義の基本理念は、進歩の利益を万人にもたらし、より公平に広く分配することです。進歩主義はそれ自身の土台を疑問視しません。発展は進歩主義の宗教です。だからこそ、ゲイツ財団は膨大な資源を投じて工業的農業やワクチン、コンピュータを第三世界に届けているのです。それが進歩なのです。仕事や会合、娯楽、教育、デートなど、生活をオンラインに移すことも進歩なのです。おそらくそれが、コロナウイルスによるロックダウン政策に進歩主義者がほとんど抵抗しなかった理由なのです。同様に、ワクチンをすぐに受け入れたことも、それが進歩を意味するとしたら納得できます。テクノロジーを身体に取り入れ、免疫系を操作して自然を改良するのです。
左派が気付いていないように見えるのは、こういう類の進歩であっても資本がますます私的な領域へ侵入するのを許してしまうことです。メタバースがもたらす没入型のAR(拡張現実)やVR(仮想現実)の体験には、広告が無いと思いますか? おそらく見て分からないほど巧妙に的を絞った広告となっているのではないでしょうか? 私たちが生活のあらゆる側面でテクノロジーと一体化すればするほど、生活自体はますます消費者向け製品になっていく可能性があるのです。
またしても、これは目新しいことではありません。マルクスのいう資本の危機(利益率の低下、実質賃金の低下、中流階級の消滅、無産階級の困窮…、どこかで聞いたような?)を食い止めてきたのは、市場経済の絶えざる拡大だけだったのです。これを支えた2つの手段は、植民地主義とテクノロジーでした。テクノロジーは高い利益の見込める新しい経済活動の領域を切り開いて資本主義を回し続けます。テクノロジーによって、ますます多くの自然や人間関係をお金に換えることができます。清潔な飲料水、病気への耐性、社会的な交流といったものをテクノロジーに依存すると、現金化された商品とサービスの領域が膨張します。経済は成長し、財政投資利益率はプラスを保ち、資本主義は機能し続けます。親愛なる左派の皆さん、もしあなたが本当に左派でありたいなら(権威に服従する協調組合主義者、いうなれば暗号化されたファシストになりたいとは思っていないのなら)、進歩と発展というイデオロギーとの政治同盟を考え直していただけないでしょうか?
トランスヒューマニズム的なメタバースを推進する人々は、それが善であるだけでなく、必然的なものだと言い表します。はるか昔からある流れの延長だということを考えれば、それは正しいと見えるかもしれません。ですが、根底にある神話と前提を可視化することで、私たちはそれを歓迎するか拒否するかの意識的な選択を行うことができると、私は望んでいます。私たちがこの大通りを走り続ける必要はありません。私たちの前に別の小道がいくつも分かれて行きます。トランスヒューマニズムのテクノ理想郷に向かう片側4車線の高速道路と比べたら、そういった小道は明るく照らされておらず良く見えないかもしれませんが、それを選び取ることはできます。少なくとも人類の一部分は、この発展の軸を離れて別の種類の進歩へと、別の種類のテクノロジーへと向かう道を選ぶことができるはずです。
(第2回につづく)
原文リンク:https://charleseisenstein.substack.com/p/transhumanism-and-the-metaverse