【5限目】世界一有名な怪物に学ぶ 科学との向き合い方(『フランケンシュタイン』メアリー・シェリー)
はじめに
フランケンシュタイン、と聞いて何を思い浮かべるだろうか。
青白い肌、縫い目の入った皮膚、暗い表情、低い声・・・。このような人造人間を想像した方もいると思うが、これは半分正解で半分間違いである。
よくある雑学でもあるので知っている方も多いと思うが、フランケンシュタインは、「そのような怪物を作り上げた博士」であり、怪物には作中で名前は与えられていない。名前さえ与えられない悲しきモンスターとして描かれるのである。
本日取り上げるのは、前回に引き続き海外文学、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』である。単なる怪物の物語というイメージかもしれないが、意外と含蓄に富む小説であるので、一般に流布したイメージと違う『フランケンシュタイン』を押さえることが「差をつける」ポイントである。
フランケンシュタイン
あらすじ
まずは例によってあらすじから。
冒頭 北極を目指す船長ウォルトンとその姉との手紙のやり取りから始まる。ウォルトンの船が流氷に挟まれて立ち往生していたところ、遭難していたフランケンシュタイン博士と出会う。科学や知識に取りつかれた失敗談として、怪物の話を聞くことになる。
フランケンシュタイン博士の語り 科学に傾倒し、生命の起こりに関心を持ち、結果、怪物を産みだしてしまう。自らが行なったことの責任に苛まれ、博士が部屋を飛び出した後、怪物は外へ出ていく。そして、怪物によって親しい者が殺されていく。
(博士を通じた)怪物の語り 博士との再会を果たした怪物は、部屋を出てからの生活を回顧する。その醜悪な見た目故に、社会に、そして人々に受け入れられない経験をした怪物は、その憤りを創造主であるフランケンシュタイン博士にぶつける。そして、怪物は、博士に(自らの同胞として)女の怪物を創るよう求める。そうすれば、ひっそりと遠くで暮らすということを条件に。親しい者を守るために、一度は怪物を創ることを決意した博士であったが、新たな怪物を世に産みだしてしまうことへの葛藤に苛まれ、放棄。約束が守られなかった怪物は、フランケンシュタインの妻を始め、親しい者をさらに殺めていく。
船長と姉の手紙のやり取り 再度手紙のやり取りに戻る。科学の誘惑に取り憑かれることへの警鐘を鳴らす、博士による最後の語り。博士はゆっくりと息を引き取る。
科学との向き合い方
『フランシュタイン』の主要なテーマは、まさに科学との向き合い方である。それを単なる怪物の物語にとどめてしまっているのだから、かなりもったいないことをしている。我々は科学の時代に生きているが、新たな技術が産み出される度に、そのリスクや倫理的許容性が問題となる。遺伝子組み換え、クローン、生成AI・・・枚挙にいとまがない。何らか、科学と倫理との間での衝突を目にした際には、「『フランケンシュタイン』の世界観だね」と言うだけで、もう周りと差がついてしまっている。これだけでもいいのだが、せっかくなので、物語の展開にしたがって見ていきたい。
まずこの作品が書かれた時代背景(1818年に出版)を押さえておく。ガルヴァ―ニによって、生物内で電気が発生し、その作用によって生体の筋肉組織が収縮・痙攣することが発見されたり(1700年代終わり頃)、ダーウィンが進化論が提唱を提唱したり、科学の進展により、人間が自ら命を生み出すことも可能ではないかといった気運が醸成されていた。
そのような前提でこの物語を読むと、主人公であるフランケンシュタイン博士は、子どもの頃に、賢者の石や不死の霊薬のような似非科学を入り口に科学への関心を持ち始めるが、父親や大学教授からは、そんなもの信じているのかと頭ごなしに否定される。こうした経験がかえって、生命を生み出すという科学の禁忌に走っていくことにつながったのではないかと、博士自身回顧している
他方で、大学で出会ったヴァルトマン教授だけが、そのような似非科学の存在があったから近代科学が発展したという側面もあると、その存在自体を否定せず、フランケンシュタインの考えを受け入れてくれる。
初めて自らの考えが受け入れられたフランケンシュタイン博士は、これをきっかけに近代科学への偏見をなくし、没頭していく。そして、もともと関心を持っていた、生命の起こりという大きな問題に向き合い、こう述べるのである。
ついに生命の発生をもたらす要因を解き明かすことに成功した博士は、眼前の大仕事への熱情に促されながら、その危険性を一顧だにすることなく作業を続け、ついに人造人間を生み出すことに成功する。しかし、生み出された怪物の見た目は非常に見にくくで、そして、どんどん人々を殺めていくモンスターであった。その良心の呵責に苛まれ、そして、怪物の恐怖におびえながら、博士は一つの結論に至る。それは、科学に傾倒することが危険であるというものである。
この物語を通じて、私自身、科学はダメだとか、科学技術の開発や技術の利用にガチガチの規制をかけるべきであるというつもりもなければ、他方で、人間の好奇心に歯止めをかけることはできず、科学の進歩に身を委ねるしかないというつもりもない。すべてはバランスだと思っているし、また、これまで生み出されてきたあらゆる新しい技術は常にそのリスクの審判に耐えてきたものだと思っている(例えば、今や一家に一台が当たり前の電子レンジだって、人体に悪い影響が出るとの批判に耐えてきた歴史がある)。
科学の危険性と、その一方にある化学がもたらす幸福や利便性という課題に直面した際に、科学への向き合い方を扱ったものとして、『フランケンシュタイン』を認識しているというだけで、(それを同僚や友人に披瀝するかどうかは各個人の裁量にゆだねるとして)周りと大きな差がついていると思うのである。
プロメテウス
なお、新潮文庫版の題名が書かれたページには、「フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス」という副題が付されている。
プロメテウスとは、ギリシャ神話に登場する神の一人で、人間を創るのだが、寒さと暗闇に怯える人間に同情して天界の火を与えたことで、最高神ゼウスの怒りを買い、永遠の罰を受けることになる。
まさに、創造主としての立場、そして、自らの所業に対する報いを受け続けるという点において、プロメテウスとフランケンシュタイン博士との間には、大きな関連性があるのである。特に西洋絵画や文学では、ギリシャ神話のモチーフが当たり前の教養のように出てくることがあるが、『フランケンシュタイン』を通じて、ギリシャ神話の知見も少し得られるので、これも周りと差をつけるポイントである。
正義のお話
また、『フランケンシュタイン』は、科学との向き合い方に加えて、人権とは何か、正義とは何かといったことを考えるきっかけも与えてくれる。
フランケンシュタイン博士は、怪物を生み出した直後から、怪物を「唾棄すべき生き物」と呼び、哀れみの眼差しを向けることはついぞなかった。博士の親しい者を根こそぎ手にかけていく怪物に、同情の余地はないのではないか、怪物は生まれながらにして怪物なのではないかと片づけることも簡単ではあるが、殺人鬼になるまでの怪物の葛藤を顧みれば、この物語が、人権や正義、公平性といった、社会の基本要素を問う物語でもあることに気づかさせる。
あらすじのところでも記載したが、怪物は、その醜い見た目から社会に全く受けれ入れられず、むしろ、排除されてきた。ある清貧な家族に接触した際も、怪物を前に人々はその態度を豹変させ、怪物を敵とみなした。こうした経験の一つ一つが怪物を大きく苦しめた。そんな怪物にとって、悲しみとは常に他者から自分に与えられるものであったのであるが、初めて他者の命を手にかけたとき、つまり、フランケンシュタイン博士の弟を殺めた際に、怪物はこうつぶやく。
自らも悲しみを創り出すことができることに気づき、不幸な自らを産み出したフランケンシュタイン博士にも、悲しみを味合わさせるべく、博士への復讐劇が始まっていく。このように怪物の心の変遷を辿っていくと、もしフランケンシュタイン博士が、その怪物を産み出した後に放置せず、彼が尊厳を持って暮らしていける環境と、彼への温かな眼差しをくれていたらと考えてしまう。
怪物がフランケンシュタイン博士に求めたことも、決して多くのことではなかったのではないか。怪物の要求は、同胞の女性の怪物を作ってくれれば、人間の前には2度と現れず、南アメリカの広い荒野にでも行くということであり、人間と同じものは求められないとしても、最低限の幸福な生活を求めていたにすぎないのかもしれない(もちろん、仲間が創り出された途端に暴挙に出た可能性も否定されないのかもしれない)。
なお、拾った本を読み知識をつけていく中で、怪物は自らが人間とは別物であることを学んでいくことになるが、これもまさに知識を求めていくことの危険性を伝える言葉ともとれる。
おわりに
本日は、だれもがその名前を知っているであろう『フランケンシュタイン』の怪物を通して、科学とは何か?正義とは何か?といったことを考える視座を得た。先にも述べたとおり、このような論点は、我々の身の回りにあふれんばかりに存在しているのだから、是非、日々の暮らしの中で「フランケンシュタイン」ポイントを見つけたら、周囲に、この物語の深遠なテーマを伝えていただき、圧倒的な差をつけてもらえたらと思う。
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