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社会性とは、「塩こしょう」である。狂人になるのは「ふつうの人」だ。「特別なことをする人」と、「特別な人」の違いとは?


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社会性とは何か?

社会性とは、「塩こしょう」のようなものである。

それがないのは味気なく、かけすぎてしまっても台無しだ。

社会性とは、非社会性を活かす調味料なのだ。そこにある素材の味と、普遍的でわかりやすく、親しみやすい味のかけあわせ。

まず活かしたい味があって、それにあわせてチューニングする。社会性とは「あわせる技術」であり、そして「あわせさせる技術」なのである。

「社会性だけ」はつまらない。

思うに、社会性が高すぎても面白くない。それは「あわせるだけの人」で、なんのインパクトも残さない。

そりゃあ、だれだって醤油らーめんは好きだ。けれども、それではつまらない。もっと、「ぜったいにいらないだろ、それ」とおもわれるようなものを「あれ?意外とイケるじゃない?」とおもわせてほしい。

社会性が高いことは、もちろん優位に働く。それがないと、非社会性は活きてこない。

ゲテモノには、それだけの社会性が求められる。変わった料理ほど、その料理法は基本にもとづく。奇ほど普遍なり。狂気は普遍の刃をまえにして、もっとも怪しく輝くのだ。

深淵をのぞかせる技術。

すり寄る力が求められていると思う。すり寄るとは、相手にすり寄らせることでもある。ついうっかり、気づいたら距離を詰めてしまうような距離感を保つこと。罠にかける意識。

非社会性の使い手は、いわば深淵である。深淵をのぞくとき、深淵もまたそちらをのぞいている。のぞくためには、のぞかせなければならない。のぞかせる技術。それが社会性。

対極を修めろ。

狂人ほど、じつは「ふつうの人」であることが多い。これについては【オマケ】で詳しく話すけれど、とにかく彼らの武器は意外にも「社会性」であったりする。おもうに、なにかを極めるひとというのは、必ずといっていいほど「その対極にあるもの」も高いレベルで修めている。

狂っているひとほど狂わないことを知っている。

それと同じように、社会性と非社会性は「対極にあるもの」でありつつ、なお「もっとも近くにあるもの」でもあるのだ。料理と塩こしょう。絶品料理と、廃棄物。人間性においても、塩こしょうのあんばいが何より重要である。

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【ここからオマケ】狂人は「ふつうの人」から生まれる?

・狂人は「ふつうの人」?
・特別なことをしたがるのは「ふつうの人」たち?
・誰がいつ狂人になるのか?

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狂人は「ふつうの人」。

狂人ほど、「ふつうの人」であることが多い。

「特別なことをする人」と、「特別な人」というのは、じつは大きく違っている。特別なことをするのは「ふつうの人」で、「特別な人」は意外とふつうのことをやっている。

アレクサンドロスは「特別な人」であったけれど、彼がやったことは「ふつうのこと」である。戦いに勝つ。勝ちまくる。征服する。至極真っ当な王道的な戦略だ。

彼は「ふつうのこと」をめちゃくちゃやったから、「なんかすごい」のである。彼は「征服した地域の風習を学習して、ふつうのことをちゃんとやる」ということで、支持を得た。

特別なひとは「ふつうのこと」を認知できる。なぜなら、ふつうでないから。特別なひとは特別だからこそ、ふつうのことを極められるのだ。

特別なことをしたがる「ふつうの人」たち。

逆に、「ふつうの人」というのは、やたらに特別なことをしたがる。ふつうな人だからこそ、彼らに「ふつうのこと」はあまり見えない。ひとびとが当たり前にやっていることを、動物的な本能で無意識にやっているだけ。それが意識下になることはほとんどない。できるけれど、わからない。

だから、彼らには「特別なこと」が見えている。ひとは異物には敏感なものだ。じぶんとは違うものに感性は働き、そしてそれに憧れるようになる。だから、彼らは特別に惹かれる。特別になりたがる。そのために、特別なことをしたがるのだ。

狂人の分布。

けれども、「ふつうの人」はほとんど「狂わない」。外から見た「狂いレベル」の分布を示すなら、「狂っていない、ふつうのひと」が99%、そして「そこそこ狂っている、特別なひと」が0.9999%。そして、「完全に狂っている、ふつうのひと」がその残りカスなのだ。


ひとは、いつ狂うのか?

ふつうのひとよりも特別なひとが基本的には狂っている。けれども、じつは一番狂う可能性があるのはふつうのひとである。そして、ふつうのひとが狂うのは「自らがふつうのひとである」と悟ったときだ。

特別への憧れを捨て去ったあとに、ふつうのひとである絶望と、ふつうのひとであることへの覚悟。それがそろった瞬間に、人間は「特別なこと」をなし得る。


「カミカゼ特攻隊」なんてのは、まさに「特別なこと」を「ふつうのひと」が行った例としてふさわしい。「ふつうのひと」は、「じぶんはふつうである」ということを認識した瞬間に、歴史や世界と同化する。

人生の主語が途端に最大化される。「ふつう」だからこそ、「特別なこと」すらも「ふつう」にしてしまう。自らの死だって、単に「ふつうの人が、ふつに1人、死ぬだけじゃないか」。

自分がどちら側の人間なのかを理解することは難しい。すべては結果論なのだとも思う。ふつうであることへの感覚と、その再認識。そのなかで、ひとはふつうになり、あるいは特別になっていくのかもしれない。社会性と非社会性。じつは、全く以ておなじものなのかもしれないな。


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