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人に奢られることを生業とし、4000人以上に奢られ、Twitter・TikTokでは、それぞれ100,000人以上のフォロワーを持つ、稀代の浮浪者(?)である「プロ奢ラレヤー」の「生の声が聞ける唯一の有料マガジン」をご紹介します。 購読者の特典 ▼契約月に更新された マガジン記事すべて読み放題 ▼読書サークルへの参加権。 現在、主に4つの連載があります。 (更新頻度は気分ですので、 毎月必ず連載があるわけではありません。) 1.「奢ログ プロ奢ラ
大抵のしんどさというのは、無気力感から生まれてくる。 こないだ奢りにきた東大生のはなしが非常に示唆的だった。 彼女がそう言ったとき、なんとなく違和感があったのだけれど、そのときはうまく言葉にできなかった。 そして今、あらためて気づいたことがある。
生活のすべてに祈りが含まれている状態こそが理想的で、なにも祈れない生活に実りなんかない。 ここ数年は、最も効果のある祈りを編み出す為に暮らしている。
インターネットには不幸なひとが多いから、「幸福について語る」と高く売れる。これ、アービトラージの基本な。そんなわけで、きょうは幸福になるための科学的な方法…について。 おもしろい論文があったので、紹介するぜ。
わたしたちは、油断すると「なにを信じて生きていたらいいのだろう」といった話を、すぐにはじめる。そのくらい、なにもかもが不安定で、つぎの瞬間にはなくってしまっているような、漠然とした喪失感に苛まれているということかもしれない。 わたしが信じているものは、とてもシンプルだ。 ひとに向き合った時間。これだけは、けして不毛にはならない。
趣味でChatGPTに月3万円を払っているのだけど、何に使おうかな〜、という感じです。とりあえず大喜利みたいに、人間にやらせるには「絶妙にしょうもない調査」とかをさせていきたい。しょうもなお題としては最適な人物こと俺。 というわけで、とりあえず実験的に「プロ奢ラレヤーをSCP分析」させてみました。絶妙にしょうもなくていい。 ちなみにオープンに公開したことがある情報のなかで間違ってるものはGPTちゃんに手動で食わせてます。マガジンの購読者数とか。 ※以下、はChatGPT
不機嫌なひとの側にいると、とっても疲れる。それは、彼らが味方ではなく、本来倒すべきモンスターそのものだからだ。 モンスターとは、打倒され、経験値をばら撒くために存在する。つまり、我々ご機嫌の勇者たちは、不機嫌モンスターを打倒し、ご機嫌レベルをアップしていかなくてはならない! 悪人には悪人の友人ができるように、不機嫌な人は不機嫌な友人に囲まれてしまう。この「不機嫌サイクル」を、どうにか早急に抜け出さなくてはならないのだ!
「陽気さが大事だ」とはいうけれど、いまさら急にテンションが上がっても不自然で不気味だろうし、なにか努力してユーモアセンスが爆上がりするわけでもないし、おれには到底ムリ…というふうに思っているひとも多いんじゃないだろうか。 でも、大丈夫。それこそおれだって、けれどもべつにテンションが高いわけでも特別ユーモアセンスが高いわけでもない。けれど、おれは陽気だ。 陽気には、じつは2種類ある。 コミュ障でも、きっと大丈夫!
自信がない、というひとによく会う。その一方で、『自信』という概念が必要ないほどに、とても自信にあふれた暮らしをしているひとにもよく出会う。わたしはどちらかといえば後者よりの人間であるが、はたして、自信とはいったいどういったものなのだろうか。 『自信をつける』とは、なにを減らすことなのか?
「プロ奢ラレヤーってまだいんの?」「はやく消えてほしい」…という声が、とおくから聞こえてくる。 すまん、あまりにも長寿コンテンツで…。 すまん、ついに10年目まで迎えてしまって…。 すまん、オワコンからほど遠くて…。 このように、「なぜか生き残るヤツ」というのが、この世界には存在している。流行り廃りの激しいインターネットの世界でも、「消えたと思ったのに、まだいる」みたいな人がいる。すぐに飽きられる…と皆に願われながらも、なぜかずっと息が続いているヤツらだ。 こいつらには
こどもの頃、うちには住民が10人以上いたので、いつも「冷蔵庫のプリン」は取り合いになった。やがて取っ組み合いのケンカなどが発生し、「じぶんのものには名前を書く」「名前がないものは誰が食っても文句はいえない」というルールができた。はじめての競争と闘争だった。 「みんなが欲しがるもの」を欲しがる人生は、修羅になる。 そこから抜け出すために、おれがこれまでやってきたこと。
「ひとのせいにすんな」というのは至って正論である。そして、「じぶんに改善できることがあるだろ」という指摘も、なかなかに耳が痛い。このように「自責と他責のバランス」をどう取るのが、ほんとうの正解なのか…。これはだれもがいちどは抱える永遠のテーマ…ってやつだ。 しかし、ここにジン・テーゼを吹き込むことができる。 それが「誰のせいでもない」という視点である。 だれのせいでもない、とはどういうことか? そうすることで、なにが生まれるのか?
こうもインターネットが「社会の掃き溜め」のようになってくると、そこを一生懸命に掘り返してお宝を発掘することの価値は、費用対効果の側面から見ると益々下がっていくように感じる(ゴミを投棄する価値は残るのかもしれない)。 この時代、いかにして時間を有意義に使えばいいのだろうか?
「ただ奢られるだけのくせに高弁垂れてえらそうだな」…といったお叱りをもらうことがよくあり、至極ありがたいことなのだけれど、「おれは求められるから答えてるだけで、それは、ただ奢られてるだけの男にまでヒントを求める、知的貪欲性が異常なひとびと(おまえらのこと)に言ってくれよ」と思ったりするわけだ。 さて、そんなわけできょうも元気に高弁を垂れようとおもう。 「ただ奢られてるだけ」の生活も、なんと10年目に突入し、よく生き残ってきたなぁ、なんてことをしみじみ思うわけだが、そんなく