『点検係』【ショートショート】
夜の工場は不気味だった。なにもかもが無機質で、真夏だというのに冷たい空気が漂っている。絶対に動かないという安心感の一方で、今にも動き出しそうな恐怖が渦巻いていた。
点検のバイトは初めてだったが、マニュアルが配られたため簡単だった。工場の入り口近くの機械を点検して、チェック欄に印をつける。
俺が応募した求人サイトには、同じ点検のバイトが他にもいくつも存在していたが、時給はどれも違っていた。点検係①はその中で最も時給が高く、数字が大きくなるにつれて安くなっているようだったが、その数字がどこまであるのかは分からない。
六つ目の機械の点検が終わったとき、ふと工場を見渡した。大小合わせて全部で二十台ほどの機械が並んでいる。点検を始めて三時間が経過していた。一台当たり三十分。全て終えるには、あと約七時間かかる計算だ。
工場にいるのは俺ひとりだけ。少しくらいサボってもバレることはない。それに、機械が故障していることなど滅多にないだろう。理由という名の言い訳をならび終えた俺は、チェック欄に上から印を付け始めた。架空の点検を済ませた後、工場の奥の休憩所で椅子に座ると、ポケットから文庫本を取り出す。そのとき、後ろの方で物音がした。
振り返ると人がいた。
「君、点検はどうしたんだ」
整えられていない髭にメガネをかけていた中年の男は、正義感に満ち溢れていた。
「あんた、誰?」
「私は、点検係を点検する係のものだ」
「なにそれ。なんの意味があるんだよ」
「点検係が仕事をしていなくて、それを私が摘発した場合、君のバイト代は私のものになる。もちろん、点検は最後までやってもらう」
俺はそのとき、自分が置かれている状況を把握した。三時間ほどの頑張りが無駄になるかもしれない。いや、それだけじゃない。点検が終わるまで、俺はタダ働きさせられるってことだ。
「じゃあ、こうしないか。あんたは俺のサボりを見逃す。その代わり俺のバイト代の二割をやろう。そしたら、あんたは残りの時間、見張りをしなくていい。どうだ?」
男は伏し目がちに何か呟いていた。受け取り得る利益を計算しているのか、あるいは、自分の良心と戦っているのかもしれない。俺が思っていたよりも、答えはすぐに返ってきた。
「分かった。いいだろう」
俺が右手を差し出すと、男も同じように腕を前に出す。握手をしてお互いに力を込めると、念を押すように男が言った。「契約成立だ」「ああ」
そのとき、俺の目を見ていた男の視線が少しずれた。俺の後ろを見ているようだ。
振り返ると人がいた。
「あなた、点検係の点検はどうしたんですか」
額を隠すように綺麗に揃えられた前髪は、真面目さを醸し出すと同時に自身のなさを主張していた。声質も若く、少年であることがうかがえる。高校二年生といったところか。
「君は誰だ」
「僕は、点検係の点検係を点検する係のものです」
「そんなものが?」
「点検係の点検係が仕事をしていなくて、それを僕が摘発した場合——」
「分かってる。説明しなくていい」
少年は、中年の男の方を見て話をしていた。俺には用がないみたいだ。しかし、男のバイト代が取られてしまったら、俺との契約は無かったことになってしまう。
「そうですか。では、そういうことなので」
俺は男の方を見る。男の方もちょうどこちらを見たようで、目が合う。俺がウインクで合図をすると、男もウインクを返してくる。中年のウインクは気持ちがいいものではなかったが、もはや俺と男の間には、共犯関係とも言える団結力が生まれていた。
「君、こういうのはどうだろうか——」
男は、ついさっき俺と結んだ契約と同じような提案を少年に持ちかけた。こうなると俺が少し損をする気がするが、面倒になりそうなので気にしないことにする。少年は考える様子もなしに、すぐに答えた。
「いいですね。そうしましょう」
少年と男は握手をしている。「契約成立だ」男はこのセリフが気に入ったらしい。「はい」少年はそっけなく答えた。
ここで俺は気がついた。逃げてしまえばいいじゃないか。名前も連絡先も知らないのだし、今なら彼らは俺の方を見ていない。音を立てないよう慎重に、気配を消してゆっくりと後退りする。今だ。
振り返ると人がいた。