見出し画像

草積夫人 ~茂木地区に伝わる龍造寺隆信ご落胤伝説~

こんにちは。肥前歴史研究家(自称)のひとみです。
久々の歴史記事は、あまり知られていない長崎の茂木地区に伝わる龍造寺隆信のご落胤伝説「草積夫人くさずみふじん祠」の話を書きたいと思います。

この話を初めて聞いたのは昨年の秋、長崎の郷土史家、江越弘人先生の講座でのことでした。「茂木の方に”くさずみ明神”という龍造寺隆信の娘を祀った祠がある。隆信が島原を訪れた際に漁師の娘に産ませた娘で、母親を失い各地を流浪する中、盲目で犬に吠えられ(噛まれ?)亡くなったため、里人が憐れんで祠を建ててお祀りした。その娘は、龍造寺隆信の娘という説と藤原隆信の娘という説がある。」という内容でした。

こ、これは初耳!!
龍造寺隆信についてミッチリと勉強した(はずの)私が知らないではすまされない、と思い、満を持して行ってみました。
ネット等を駆使して場所を検索し、祠は長崎市の茂木にある玉台寺というお寺と、2024年3月に廃校となった千々にある旧長崎市立南小学校の近くの2ヶ所にあることがわかりました。

位置関係はこんな感じです。茂木は長崎港の裏側、橘湾に面した地域になります。橘湾を隔てた向い側が島原半島です。


ここで『長崎市史地誌編』(昭和13年4月発行)より「草積夫人祠」について引用します。

「・・今長崎名勝図絵に載する所の詞記を左に転載しやう。
  夫人草積はもと肥前州のはく龍造寺藤原隆信の女なり隆信嘗て 
  島原に往き漁人女に会ふて生む所にして隆信其子たることを知らず母死
  してよる所なく時に流落してこゝに来る夫人もとより目しひたり遂に迷
  ふて路を失ひ・・(略)・・遂に死せり即ち葬る後しばしば異を顕は
  す因て祠を立て称して草積明神と云・・(略)・・里人云く夫人の船は
  じめ流れよる所は千千ちゞ村なり村に漁猟の家やうやく三家あり
  て保養せりまさに死せんとして請ふて曰我死せば高き山の海にを臨み見
  るの地に葬り五りんの塔を立よとよつて千々と大崎の間大木の松樹ある
  所に墓をなせり其後やしろを玉臺寺の右の側にうつし祭る近年其祠焼亡
  すよつてまた移して今玉臺寺の内に在り。云々

(『長崎市史地誌編』昭和13年4月発行/長崎市役所より。一部旧字体を新字体で記しています。)


「龍造寺藤原隆信」とありますが、龍造寺氏の本姓は藤原氏(藤原秀郷の後裔といわれている)であり、これは龍造寺隆信のことと解釈してよいのではないかと思います。『長崎文献叢書 長崎名勝図絵』(昭和49年2月発行/㈱長崎文献社)にも「肥前国主龍造寺隆信の女」と現代語訳されています。
(玉台寺の草積御前の祠の解説文は「藤原俊成の子隆信(定家の兄)」となっていましたが・・。)

閑話休題

その玉台寺の祠と千々にある祠にお参りしてきました。

①浄土宗松尾山玉台寺にある草積御前の祠

茂木町にある浄土宗松尾山玉台寺。立派なお寺です。


境内のイチョウの木の下に祠が。


解説板。ここには藤原隆信の娘と書いてあります。


ちなみに藤原隆信という人物は

藤原隆信(1142-1205年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の貴族である。

(『茂木 長崎市編入50周年の歩み』P32より引用)

とありました。藤原定家の異父兄にあたるようです。

またこれは全くの余談ですが、この玉台寺の近くには、県外から来店する人もいるという有名な「オロン」というパン屋さんがあり、この日もあわよくばと思いましたが、出遅れたためか既に完売!お店は閉まっていました。オロンのパンを買うには朝早くに行かないといけませんね。

②千々の旧長崎市立南小学校付近にある草積御前の祠

千々町は茂木町より県道34号線をさらに南に20分ほど行った小さな海沿いの集落。この付近は茂木びわとみかんの産地です。長崎市立南小学校は小中併設校でしたが、2022年3月末に中学校が閉校し茂木中学校に統合。小学校も2024年3月末に閉校し、茂木小学校に統合されたそうです。

旧南小学校入り口付近にある看板。


草積御前の祠。茂木四国八十八ヶ所の55番霊場でもあります。


中央の石仏が草積御前。可愛らしい御像です。
石塔


以上、2つの草積夫人(御前)の祠にお参りしました。
龍造寺隆信が戦死した島原半島から橘湾を隔てた場所にあたる茂木地区に、この様なご落胤伝説があるのは非常に興味深いですね。本当にご落胤だったかは現在では知るよしもありませんが、何らかの理由でこの場所落ち延びてきた女性が龍造寺氏の関係者だった、ということはあり得るのかもしれません。
いずれにしろ、現在も地域の方に大切にお祀りされていることがわかり安心しました。


この「くさずみ」様、「草墨明神」として長崎市潮見町にも祠が、また西彼杵郡長与町にも「草住様」という祠が3ヶ所あるそうです。『ふるさと長与の山と歴史』(尾上隆三著)という冊子に「元来『草住様』とは、土地の安泰と作物の豊穣を願ってお祀りするもので、古くから自然信仰の対象として全国各地に見られますが・・」とあり、上記の「草積夫人」と同じものか違うものかは現時点ではわかりません。今後の調査課題としたいと思います。参考までに、下の写真は長与町の岩淵神社境内にある「草住神社」の碑です。


左が草住神社の石碑。


では、今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。


【参考・引用文献】
●『長崎市史地誌編』(昭和13年4月発行/長崎市役所)
●『長崎文献叢書 長崎名勝図絵』(昭和49年2月発行/㈱長崎文献社)
●『茂木 長崎市編入50周年の歩み』
●『米寿記念誌 ふるさと長与の山と歴史』(尾上隆三著)

いいなと思ったら応援しよう!

ひとみ
よろしければサポートお願いします!いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます。