40年前の水害のこと【随想】
1982年7月23日の長崎大水害から今年で40年が経ちます。当時、長崎市内に住んでいて水害を体験した者として、ここに当時のことを記録しておくことを思い立ちました。
初めに申し上げますが、幸いにして我が家は冠水などの被害はなく、家族や親戚にも水害で犠牲になった人はいません。直接被害に遭われた方からみると大したことのない話だと思いますが、一長崎市民の体験談としてお読みいただけると幸いです。
その年は梅雨が長引いており、誰もが明けるのを待ち望んでいました。
当時、長崎市内の県立高校の1年生だった私は雨の中を夕方に帰宅し、夕食を済ませテレビを見ながら一息ついていました。父は夕方から用事で市の中心部に出掛けていました。近くの学習塾から妹が帰宅し台所で1人夕食を摂っていたら、雷が激しく鳴りだし、雷が苦手な母は早く夕食を済ませるよう妹を急かしていました。
雷が収まると雨脚が一層激しくなりました。午後8時過ぎだったでしょうか、テレビを観ていたら急に停電したので、懐中電灯とろうそくを灯しました。真っ暗な中雨は激しく降り続き、父はまだ帰宅せず、次第に言い知れぬ不安が私たちを襲ってきました。午後9時過ぎでしたでしょうか、近所の方からの声掛けで、近くの川が氾濫し、目の前の中学校や川近くにある住宅が冠水していることを知りました。幸い自宅は少しだけ川上にあるので、父もまだ帰宅しておらず、暗闇の中を避難するよりも家の中に居る方が安全だと母は判断し、そのまま自宅で様子をみることにしました。(後にして思えば、娘2人と母、女ばかりの3人で、母はどんなに不安だったことかと思います。まさに「母は強し」です。)
降りしきる雨の中、いつしか私は眠ってしまいましたが、母の話によると夜の12時ごろやっと父がずぶ濡れになって帰宅したそうです。父の話では、道路の冠水が始まった午後8時頃、1台だけ来た自宅方面に向かうバスに乗ったものの途中でバスが通行できなくなり降りる羽目に。そこから腰まで水に浸かりながらなんとか歩いて自宅までたどり着いたそうです。後々水害の被害状況を知るにつれ、この時父が流されずに無事に帰宅できたのは本当に運が良かったと思いました。(実際、流されて亡くなった方もたくさんいらっしゃいます。)
翌朝、まだ電気やガスは通っておらず、バスも止まっていました。私の通っていた高校は進学校で、ちょうど夏休みの補習が始まっていましたが、交通手段がないためそのまま補習を休むことにしました。昼頃に電気が通ったので、テレビを点けるとニュースでは変わり果てた長崎の町が映っていました。凄まじい土石流で埋もれた家々、削られた山肌、中島川の氾濫で壊れた眼鏡橋・・死者・行方不明者の数がだんだんと増えてゆき、大変なことが起きたことにただ茫然とするばかりでした。学校からは、夏季補習は暫く中止する旨の連絡がきたので、電話は早くつながったのでしょう。ガスも翌日には復旧したので、地域的には被害は少ない場所に住んでいたようです。自宅が少し川上に位置していたのも助かりました。
8月になる頃に学校の補習が再開されました。幸いなことに、学校は丘の上にあり冠水の被害はなく、同じ学校の生徒にも犠牲者はいませんでした。(自宅の目の前にある中学校は、川の氾濫で職員室の書類が全部冠水したそうです。)この頃には通学バスも通るようになりましたが、市内中心部の乗り換えをするバス停付近は、掃除も片付けも済んでいましたが泥の臭いまだかすかに残っていました。商店街もぼちぼちと開くようになりました。その頃行われていたのが「冠水品」のセール。水害の被害に遭った商店の在庫セールで、「冠水品」と銘打ちながら出ている商品はきれいなものだったので、実際に水に浸かった商品は出ていなかったものと思います。
また、学校を通してボランティアにも2度ほど駆り出されました。
1度目は県の福祉センターに全国から届いた”救援物資”である衣料品の整理作業。体育館くらいのスペースに広げられた山のような衣料品を種類別に仕分けましたが、色んなものがありました。新品やクリーニングしたばかりのきれいなものから「誰が着るのだろう」と思うような色合いのもの、果ては破れたり、汚れたりしてるもの・・。「善意」からとはいえ、やはり他人様に差し上げるものに汚損したものはどうなんだろう?と強く疑問に思いました。
(この経験があったので、災害の折は余程のことでない限り、少額でも寄付=お金で気持ちを表すことにしています。物品は整理作業も大変なので・・)
2度目のボランティアは、市民病院での給食運搬でした。冠水のためエレベーターが故障したので、給食を人力で運搬する、という作業でした。女子とはいえ若く体力のある高校生には、他人様の役に立つという満足感を得られる上お友達とおしゃべりもでき、さして辛い作業とは思いませんでした。次の日程も決まっていましたが、エレベーターが復旧したので給食運びは1度だけで終わりました。
あれから40年。肉親を亡くされた方や、被害に遭われた方から見ると、大した被害とも言えず体験談というには気が引けますが、長崎市民として肌で感じた当時の様子を少しでも残すことができればと思います。
長崎市では今年も、7月23日の午前11時に長崎大水害の犠牲者299名の冥福を祈るため黙祷のサイレンがなります。8月9日の原爆祈念の日とともに、長崎の町が未曽有の大災害に遭った日として、これからも語り継がれていくことでしょう。
長崎大水害の被害状況等はこちらをご参照ください。
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