『批評精神について』批評とは極北の精神にほかならない
この論文は昭和二十四年に発表された。
このように前置きして、福田は、平面上に置かれた物体について語り始める。平面はつねに動いている。少しの傾斜でもすべり始める物体もあれば、多少の傾斜では微動だにしない物体もある。ここでの平面と物体は、それぞれ現実と精神の比喩である。
他の精神の眼には傾斜とは見えないような微細な傾斜を—— またその予兆すらを—— 真っ先に鋭敏に感知する眼こそが、すぐれた批評精神というものである。
そのうえでこの批評精神にはある特徴がある。それは、もし現実が安定しているとするならば、自らの身体を傾斜させてまで、平面の傾斜を錯覚しようと努めてやまないということだ。
かれの精神はなぜそこまでして、傾斜を、すなわち不安定を求めるのかという問いに対しては、循環論法的になるが、それが批評精神そもそもの機能だからだ、としか答えようがない。
この点に関して、福田は下のように言う。
批評精神が忠実たらんとするのこの機能を、福田は、「個人の誠実」と言い換えて、話を進めていく。だがこの個人の誠実というものほど、難しく捉え難く、それゆえに今日、軽視されているものも見あたらない。
誠実に生きるということ。それは並外れてすぐれたバランス感覚を要すること、いうまでもない。まず、個人の誠実ということと、個人への誠実ということは全く異なるものだ。我意や恣意、つまり自分勝手は、個人への誠実ではあるかもしれないが、決して個人の誠実ではない。
このように個人の誠実は、安直な我意や恣意を否定し、現状の社会を否定し、あらゆる現実を却下し、つねに不安定を求めて立ち止まることを知らない。まさにすぐれた批評精神そのものの生き方である。
それは言うなれば、否定を繰り返しながら、その先に理想をめざして歩み続ける「極北の精神」なのだ。
極北とは、要するに理想のことである。そこには「現実のひとかけらも存在しない」。現実的な理想や、現実的な夢ということばは、矛盾したことばである。なぜなら理想とは、本来、決して手の届かないもののことを指すのだから。
しかしだからこそ、それは理想なのであり、だからこそ、理想は尊いのである。反対に、安易に現実に合わせて理想を引き下げるような行為は、それこそ批評精神の欠乏以外の何物でもないだろう。
言うまでもないが、福田は終始、批評家の精神についてではなく、批評の精神について話している。それは我々の内にもあるし、あらねばならぬということだろう。